モルトケは自己を信ずることが極めて厚かったので、自分の育てた部下をも信ずることができ、部下に対する信頼を前提とする戦略思想を確立することができた。
強いドイツを支えた参謀本部制度の成立過程とその栄光の時代を取り扱った本。渡部昇一の本としては良くまとまっていて当時のプロイセンの歴史を辿ることができます。日本も大モルトケの推薦でメッケルが着任し秋山好古や児玉源太郎などの将校を育てたという点で繋ってきますね。
1.ナポレオン戦争
2.普墺、普仏戦争
3.モルトケとビスマルク
1806年にイエナとアウエルシュタットの戦いで破れたプロイセンは、ティルジット平和条約により国土の半分を失う。ここで陸軍改革を担ったのがシャルンホルストになる。
改革は主に国民皆兵に基づく常備軍と軍事省の設立。参謀部は常設されることになる。
また軍隊を師団単位に改め、それぞれに参謀を配置した。将校もそれまでのユンカー貴族からだけではなく平民階級出身者を多く取り入れた。この後に彼のもとからクラウゼヴィッツ、グナイゼナウ、グロルマン、ボイエンなどが輩出されることになる。
1813年の対ナポレオン戦ではグナイゼナウは、天才ナポレオンと直接戦うのは不利という判断をし、戦略的撤退を繰り返し消耗戦に引きずり込むという案を採用しこれが当たることになる。ナポレオンは14戦11勝で敗れ去った。なおフランスは普仏戦争までプロイセンの参謀本部制度に気付かないままであった。
参謀本部は平時においても解散されることなく軍事省内に存在しつづけ、次の戦争の準備をし、高級将校の卵たちを教育し、科学な訓練を与え、将来の戦場となる可能性のある地域の地図を完備させ、隣国の軍隊を研究し続けることになったのである。
**普墺、普仏戦争
1858年に参謀総長となったモルトケはその後の普墺、普仏戦争を勝利に導く。彼が考えたのは
1.主戦場に可能な限り多数の軍を集中するというナポレオン戦術を、鉄道網の充実と電信技術の発達(動員が早くなる)によって分散進撃方式で実現できると考えたこと。当時は内線戦術が主流であったが、これにより外線戦術、つまり包囲攻撃の有利さを実現できると考えた。
2.分散進撃・包囲集中攻撃を行う指揮官には質の差があることを前提としたこと。それでも自由裁量権を与えたこと。
3.要塞よりも鉄道に支えられた野戦軍の方が優れていると判断しこと。
1866年の普墺戦争時に戦場に通じる鉄道はプロイセンが5本持っていたのに対しオーストリアは1本しかなかった。結局ケーニッヒグレーツの戦いではプロイセン軍は三方からオーストリア軍を包囲し勝利した。七週間であった。
続く1870年の普仏戦争でもセダンの戦いでナポレオン三世を捕縛するなどの完勝を誇ったが、パリ入城などにより対独悪感情が形成されることになった。
**モルトケとビスマルク
モルトケとビスマルクの仲はあまり良くなかったが、それでも互いの能力に全面的に信頼を寄せていたらしい。ビスマルクは決して軍事に口出しせず、モルトケも連戦連勝で発言権が非常に高まっても外交には口を挟まなかったという。
自分ひとりならプロフェッショナルに徹するというのも実現可能であろう(もっともそれすら難しいが)。しかしそれに加えて相手方にも同様の精神や能力があるという事態はなかなかないのではないか。歴史の面白さと深みはこういった個々の関係性の中にもあるのかもしれない。
**米新規失業保険申込件数は2007来の低水準
2007年9月以来の低い32万件。消費者物価指数(エネルギー、生鮮を除く)は0.2%上昇し1.7%となった。これらにより9月のFedによる債券買入縮小がより確実になり株式は下落し、長期金利も上昇した。CiscoやWalmartの悪決算も影響した。
**エジプトへの反応に困る西洋諸国
米国は2年ごとに行われているBright Starと呼ばれる軍事合同演習を停止すると発表する一方で、年に15億ドルの支援については言及をしなかった。フランスのホランド首相はいますぐ抑圧をやめるように求め、内戦を避けなければならないと発言した。
**インド、資本流出に制限
インド中銀は、企業や個人の対外直接投資の上限を引き下げた。これにより特別な許可がない限り、対外直接投資は自己資本の400%から100%が限度となった。モルガンスタンレーは、ブラジル、インド、トルコ、南アフリカ、インドネシアの通貨を脆弱な5通貨と表現している。