2014/02/10

音楽を語る フルトヴェングラー


1886生まれのベルリン、ウィーンフィルの指揮者フルトヴェングラーが音楽について語った本。

クラシック音楽とは何か、聴取とは何か、ベートーヴェンがどうして偉大なのかといったことを解りやすく説明しており、ひとつの考える線のようなものを与えてくれる。

■聴衆

聴衆は自動的にどの刺激にも反応する人間の集まり、独自の意志を持たない集団を見なくてはならない。価値の判断を下すには時間を充分に持っている必要があるからだ。しかし各個人の判断はたいへん間違っていることが多いが、全体としてみると聴衆にはおそろしく分別がある。

統計ではベートーヴェンの奇数曲の交響曲、シューベルトの未完成、チャイコフスキーのいくつかの交響曲を聴衆が好むことがはっきりしている。これには根拠もある。

それは作品の線の進行が極めてはっきりしていて見通しが良いことだ。つまり創作の造形ということで他の作品より優れているのかもしないし、それによって演奏の質や才能の乏しい解釈によって作品がそれほど台無しにならない。

個人的にはどうして一見きわめて明白な効果が時代とともに対して消耗しないか、ということに興味がある。

ベルリオーズ、ヴァーグナー、シュトラウス、チャイコフスキーの一部の作品に効果ばかり狙う作品があるが、効果そのものと持続的な効果とは必ずしも絶対的に同じものではない。あまりに意識されすぎた瞬間的な効果が別のもっと深い持続的な効果を妨げることもある。

■クラシック音楽

クラシック音楽は一種の音楽的無矛盾性が特徴であって、これは思考の論理的な関係の一貫性と同じようにそれなりに動かせないものだ。この音楽の論理は本当のクラシックの大作曲家にあっては曲全体を貫いている。

標題音楽が流行しだしたときには純然たる音楽的論理を、外部から由来しする写実的な判然とした論理におきかえようとし、表題というものに頼って音楽的論理を素材的な性質の関連にいわばこっそりすりかえようとした。

こういうことは早くもリストの頃から行われるようになり、個々の部分を造形的に労作するれば良いとなった。全体には気を配らずそこは表題に頼るようになった。

この全体から細部へという進展は歴史の歩みとともに進んだので、音楽的な統一というものが時代とともに失われ、複雑になることによって聞く人の感情に訴えることができなくなった。

バッハは水平的な・旋律的なポリフォニーの点で複雑で、和声的な面でも割合に複雑だが、リズムの上ではきわめて簡単だ。ベートーヴェンは旋律的な点でも和声的な点でもこれよりもずっと単純であったが、その代わりにリズムの面とこれに関係した全体の構成の点では限りなく複雑であった。

人間の統覚能力全体には限界があるという必然的な結果として、他の機構が相対的に単純であることよって均衡をたもっている。耳には人間の他の感覚器官と同じように限界がある。

全体の姿をみえる芸術はみな難しいし、もっとも単純に見えるものはもっとも難しいことが少なくない。

■作曲家について

感銘を与えるのは技巧の背後にある人間の言葉、内面的な必然性のために技巧を支柱とた人間の言葉だ。そして精神的なものと素材的な面を統一する方法が大作曲家によってみな違う。

バッハはどの音符も、和声的機能と旋律的機能の意義を同時に持っている。そのリズムは独立的な要素として表面には表れない。全体は少しももつれたり、滞ったりせずに転がるように過ぎていく。

瞬間的な弱点はいささかもみられず、線の進行と和声の流動との共同作用による、静かに絶え間なく続く力は、滔々と流れる存在のための最適な状態を、いわば成り行きに結びついて続いてい状態を表している。

モーツァルトでは既に変化というものの方が優勢になっている。バッハが知らなかった、あるいはわざと締め出そうとしたリズムの対比を早くも取り入れているからだ。それでもまだモーツァルトでは、全体は滞りなく、塊になったりせずに、完全に流れている。

その全体の流れは、もはやバッハのように叙事的でもなく、そうかといってベートーヴェンのように劇的でもない。モーツァルトはこの両面を独特な、そしてモーツァルト以後には二度と見られない方法で結び付けている。

モーツァルトは完成した剣士のようにすべきことを容易に、しかも絶対的に行う。最大至難の問題を苦労や不安を少しもみせずに、紳士風の上品さと愛嬌をもって克服していく。モーツァルトは理論家の理想であり、音楽学校の生徒の模範だ。

ハイドンはいっそう庶民的だ。モーツァルト以上に親近感と腕白さを持っている。全音楽的統一という意味ではハイドンによって近代音楽が始まったといえる。

■ベートーヴェンの偉大さ

ベートーヴェンまでの音楽は叙事的な性格であったが、ベートーヴェンではじめて、音楽は自然界で悲劇的結末の形で演じられるものを表現する能力を与えられることになった。

この関係はギリシャで叙事詩がドラマより先に来た関係と似ている。記述は現実と出会う方法だから叙事はドラマよりも先に来る。そしてこの現実が記述ということで征服されてはじめて、芸術は人に自然に感動をあたえるために必要なある程度の抽象化が行われる。

バッハは本質的には叙事的だ。ひとつの主題は不変の存在を表していて、展開の時も運命を体験するという意味では変化しない。単主題作曲だ。どの曲も断固とした徹底さをもって、予定された道を進んでいく。

ベートーヴェンの場合は曲の進行はもはや最初の主題だけで生じているのではない。もっと多くの主題を扱っている。そしてこれらの主題の対立と融合とから、まったく本当にはじめて曲が発展している。

ベートーヴェンの特色は第一に、どの主題に対しても彼一流の主題に応じた境遇、風土を作っているということ。第二に、そして決定的なことだが、どの主題に対してもひとつあるいはそれ以上の手を見つけだし、それによってその主題が最大限に発展できるようにしている。

つまりベートーヴェンは同じ源泉から同じ全体の気分から、まったく別の独自の価値を持った多くの主題を作り出していると言うこと、そしてさらに、これらの主題はその相互の間で発展する生命というものによって、はじめて主題という性格を帯びてきて、個々の主題の世界をずっと超えてあらゆるものを作り上げる、新しい全体を表現する。単独の主題の創作だけではない。

ヴァーグナーは音楽の助けによって詩人の夢を追うという詩人であり、これは特殊な例だ。悲劇的結末をもった音楽作品はトリスタン、あるいは神々のたそがれ、のように音楽劇である理由がある。それは悲劇性は音楽自身にあるのではなくて、材料、劇にある。

悲劇の終局的な作用、その解放し救済する力は音楽では、悲劇的なものとは反対のもの、つまり歓喜からほとばしる。

ベートーヴェンの場合でも本質的なものはイデーではなくて、彼がどのようにして音楽的に実現しているかという方法だ。まったくのはなし、ベートーヴェンは他のどんな人達よりも、すべてを純粋に音楽的な形にして解決しようという欲望を持っている。

第九のシラーの詩も音楽家として言おうとしたものに対して、適当に歌詞を探していたのであり、偶然にもその歌詞を、抽象的理想的なもにもとづく傾向のあるシラーで見つけ出した。またベートーヴェンはシラーの詩からただ少しばかりの節をとりあげ、そうしてそれを思うがままに繰り返して作曲した。

疑いなく作品で何かを生じさせ生成の効果をあらわすベートーヴェンのような作曲家にとって、終楽章はつねに最大至難な問題だった。なぜかというと終楽章は最後のしかも決定的な言葉だからだ。

ベートーヴェンを特徴づけるのは独特な意志と、ほかならぬ単純化する特殊な能力だ。ベートーヴェンの主題の的確で簡潔な構成は、先天的にあったのではなくて、努力されて獲得されたものだ。美しい主題の最初の形は、最終的な形よりも複雑だったからだ。つまり意識して簡単なものに進んだ。

単純化しようとする意志、発展の音楽的な論理、こういうものが感受性のある聞き手には何回となく好感をもとめられるベートーヴェン独特の明確さを生じさせる。


**Sony TV部門のスピンオフ PC部門の売却を決定

過去の改革が上手くいかなかったことを認め、今度が最後の改革だと強調。

**米 80億ドルのフードスタンプ削減

4800万人が使用しており、Walmartなどの小売に影響。

**ECBは金利据え置き

投資家の期待をすかすし、ユーロは対ドルで上昇。ドラギ総裁はデフレは否定。

**ノルウェーの金曜日はfree day

労働時間は先進国の中で3番目に少ないが、1時間あたりのGDPは最も高い(日米の倍)。1人あたりのGPDも4番目だ。これを可能にしたのは石油であるが、過去のオランダのように将来の生産性が懸念される声も。

**S&PがBail-in Bondsに警告

銀行が販売している危機時に株式に転換できるBail-in Bondsだが想定より危険な可能性があるとしてダウングレードの可能性を示唆。

**大寒波で天然ガスが不足するとヘッジファンドが投資

生産量を上回る過去最高の需要が続く。

**Bitcoinの可能性

外国為替やデジタルの所有権交換など

**最も信用力の高い国はノルウェー

鬼のようにしっかりしたバランスシートに例外的な金融力の強さが理由。CDS市場も最も低い価格で取引されている。

**米1月雇用は113000人増

失業率は6.6%へ。