2014/05/23

概説ラテンアメリカ史(3) 自由と独立への目覚め ナポレオンのイベリア半島侵略と植民地の反応 ヌエバ・エスパーニャ副王領の独立 南アメリカの独立


自由と独立への目覚め

植民地時代も200年を経ると、実質的に植民地経済を担っていたクリオーリョは子供達に教育を与え、社会の中核を担える人材をすでに育てていた。彼らは一定以上の教育を受けていたため、18世紀ヨーロッパの啓蒙思想を受け入れていた。

ナポレオンのイベリア半島侵略と植民地の反応

1807年にナポレオンはポルトガルに侵攻した。この過程でスペインにも宮廷の勢力争いが起こり、これに乗じてナポレオンは実兄をスペインの国王に据えた。ただちにスペイン各地で反ナポレオン闘争が開始され、2ヶ月後には植民地にも伝わった。

このニュースが伝わると殆どの地域はスペイン王のフェルナンド七世への忠誠を表明した。しかし多くの地域が国王の代理である副王の権威と権限を否定し、自治権確立への動きを始め、クリオーリョを差別していた様々な規制の撤廃が要求され出された。

スペインでは1812年に自由主義憲法(カディス憲法)が制定された。君主制を否定したこの憲法によって、植民地は本国と平等な地位を与えられ、スペイン人との間の法的平等が保証された。

しかし1814年にイギリスの支援を受けたスペインがナポレオン軍を撤退させ、フェルナンド七世が復位すると事態は一変した。議会は閉鎖され、カディス憲法が廃止され絶対王政が復活した。同時にフェルナンド七世は植民地における独立運動に対して軍隊を派遣し、激しく弾圧しようとした。

ヌエバ・エスパーニャ副王領の独立

メキシコでは副王を擁立して本国が分離独立する計画が立てられたが失敗した。しかし本国における国王の不在で副王の権威の根拠も失われ、それに代わる植民地住民の自治を担う政府委員会が各地で組織された。

こういった中で副王はスペイン国王の権威を保持することを諦め、メキシコ議会の召集に同意した。しかし副王のこの動きに反対する富裕なスペイン人商人や大土地所有者たちはスペイン国王を支持する王党派として結束し、武力で副王を追放した。

これに対しクリオーリョのイダルゴ神父が反乱を起こし独立運動を展開した。だがクリオーリョは暴徒化した群集に背を向けた。

イダルゴ神父の後を継いだメスティソのモレロスも副王軍の前に敗れ去ったが、1820年にスペインで自由主義派の革命が成功し、カディス憲法が復活すると、クリオーリョは一転してスペインからの独立を支持し、副王軍を破りメキシコの独立を達成した。

クリオーリョたちの翻意は、スペイン本国の動きだけではなく、本国でたびたち急変する政情への苛立ちとそれに翻弄される植民地という関係を断ち切るために、独立の道を選んだものによる。

ハイチや中米地域もそれぞれの過程を経て独立した。

南アメリカの独立

アンデス地域でスペイン王党派の牙城となったのは、ペルー副王領の首都リマである。ここは副王軍による守りも固く最後まで独立派に抵抗した。

カラカスを中心とするベネズエラでは後に『南アメリカ大陸解放の父』と称される『シモン・ボリバル』が独立運動を率いた。

ボリバルはカラカスのクリオーリョの大地主の子として生まれ、16歳でスペインに留学し、のちに広くヨーロッパやアメリカ合衆国などを旅行、1810年に独立運動が起こると独立革命政府に参加した。

幾多の苦難と敗北を切り抜け、やがて独立解放軍の指導者となったボリバルは、1819年に独立したグランコロンビア共和国(現在のコロンビア、ベネズエラ、エクアドル)の大統領に選出された。

その後も独立戦争はさらに続き、エクアドルとペルーの解放を目指したボリバルは、1824年に『アヤクチョの会戦』と知られる一大決戦でスペイン副王軍を破って南アメリカ大陸の解放を決定的にした。

ボリバルは1826年に分裂独立した旧スペイン系諸国の団結を呼びかけ『パナマ会議』を招集した。グランコロンビア、メキシコ、中米連邦、ペルーの四ヶ国はスペインによる再征服の危機に備えて軍事同盟を結んだ。しかし同盟条約は他の三国が批准しなかったために発効しなく、またグランコロンアも1830年にはベネズエラ、コロンビア、エクアドルの三国に分裂した。