2014年5月24日土曜日

概説ラテンアメリカ史(4) 建国の理念と争点 カウディーリョの時代 植民地社会の残存と近代化思想 教会の扱い ラテンアメリカと列強


建国の理念と争点

スペイン領は1828年までに9つの共和制国家に分離独立した。しかしこの独立ののち約半世紀にわたって内乱が続き、国土は疲弊し、経済が疲弊した。この混乱の時代は一般に『カウディーリョの時代』と呼ばれている。

原因は複雑だが、最も大きな原因はこの地域が長期にわたって中央集権的な植民地統治下に置かれてきたために、住民による自治意識が育たなかったことにあった。

新しい国家の建設にあたり激しい論争が展開されたのは、国家体制を君主制にするのか、共和制にするのかという問題であった。ハイチとメキシコは一時帝政をとったが、多くの国ははじめから共和制を採用した。

君主制を主張するものたちも植民地時代の絶対君主制を支持していたわけではなく、各地域が独自の社会と経済を発展させ、また厳しい身分制度を経験してきた新生国家は、国家統合には強力な立憲君主制が必要であると考えていたのである。

もう一つの争点は政治体制を中央集権制にするか連邦制にするかであった。植民地統治の下部行政単位にほぼ沿って独自の経済圏が形成されていたため、地域間の対立が激しく、中央政府の権限をめぐって深刻な対立が続いた。

植民地時代の権力と富を象徴していた首都を中心にした強力な中央集権国家を主張する勢力と、比較的な自由な自治と分権主義を主張する地方の勢力とか度々武力を伴った政争を続けた。

カトリック教会の扱いもまた重要な問題になった。争点は、ローマ教皇からスペインとポルトガル両国王に与えられていた国王の宗教保護権を独立国家が受け継ぐのかどうか、また植民地時代に教会が享受していた特権をどうするかどうかであった。

一般には特権は縮小される方向に向ったが、独立国家ではカトリックは国教としてとどまり、国家の支配下におかれた。

これらの争点を巡って各国で保守派と自由主義派に二分された。

保守派は植民地時代のスペインの伝統を否定せず、カトリックを国教とし、中央集権による国家統合を主張した。支持者は大土地所有者、軍部将官層、聖職者など植民地時代の特権階級に属する人たちであった。

自由主義派は、主に中産階級に属する法律家や医者などの専門職にある自由業の人々や中小の土地所有層から成り、法の下における平等と個人の自由および権利を最も重要視した。彼らはスペインの植民地時代の伝統と特権主義を否定し、非寛容なカトリック教会のあり方を攻撃した。

この保守派と自由主義派は政治体制とカトリック教会の地位をめぐって対立を続け、多くの国々で『カウディーリョ』と呼ばれる軍事力をもった地方ボスに権力を独占されるという混乱時代が約半世紀にわたって続いたのである。

カウディーリョの時代

独立直後から1860年までを『カウディーリョの時代』と呼ばれている。長年による植民地支配によって地方の自治が育たなかったため、スペイン統治下の政治経済機構が崩壊したあとそれに代わる制度は容易に確立せず、力でのしあがる者が支配する群雄割拠の時代が出現したのである。

カウディーリョの多くは特定地域を支配する地方規模の実力者であったが、中には全国を統一して一国の権力者となる独裁者もいた。

カウディーリョたちの権力と権威の源泉は、独立運動に参加して発揮したリーダーシップとカリスマ性にあった。

またこの時代はアシエンダの支配する農村が都市を凌駕していた時代であり、独立運動で頭角を現した多くのカウディーリョたちは大土地を所有し、アシエンダ内の農民とは領主とも領民とも呼べるような地位の支配者でもあった。

国家の展望にも権力機構の制度化にも関心を持たなかったこれらカウディーリョの統治はは個人の力量による支配で、政治は不安定でしばしばきまぐれであった。

メキシコのサンタアナ、アルゼンチンのロサス、ベネズエラのパエスはこの時代に一国の政治を左右した代表的なカウディーリョであり、全ての特徴を彼らに見出すことができる。

植民地社会の残存と近代化思想

新生国家の独立は、実質的には植民地時代の社会と経済構造をほとんど変えなかった。人口の80%を占めた農村人口のほとんどは農奴的な状態で大農園のアシエンダに拘束されていた。どの国でも独立国家の正式な市民権を与えられたのは人口の3%~4%の資産を有する男子だけであった。

教会も国教の地位を与えられ、実態はほとんど変わらなかった。むしろ経済力と影響力を強化さえした。なぜなら15年に及ぶ独立戦争時に、スペイン王党派にも独立派にも軍資金を提供しており、その担保として抑えていたアシエンダや都市の不動産を戦後の経済混乱の中で取得していたからである。

自由主義者たちはラテンアメリカ諸国の近代化にはヨーロッパから移民を受け入れることであると信じていたので、信教の自由を確立する必要性を早くから認識していた。さらに聖職者の政治介入の制限、カトリック教会が蓄積してきた富に接収と土地の流動化、初等教育における宗教教育の禁止、国民の日常生活全般を支配する教会権力の排除などが近代化政策に掲げられた。

教会の扱い

植民地時代に王権が保有していた宗教保護権はローマ教皇から与えられたもので、聖職者の叙任権、教会の権力と収益の監督権、教皇大勅書に対する拒否権を含んでおり、王権による教会支配と管理権を認めたものであった。

いずれの新生国家もこの国王が保有していた宗教保護権を国家が引き継ぐことを主張した。しかし教会側がこれを拒否したため、独立直後から国家と教会の対立がはじまった。

ローマ教皇庁は独立運動初期には王権支持の立場に立っていたが、スペインで自由主義革命が成功すると、中立へと転向した。

■ラテンアメリカと列強

スペイン系ラテンアメリカ諸国ではクリオーリョたちが独立により政治の実権をスペイン人に代わって握ったが、多くの国で経済は独立運動期に有利な地位を獲得したイギリス人の手に落ちた。

イギリス人はラテンアメリカ諸国が独立を達成すると同時に新生国家に貿易の自由化を迫り、門戸を開放させた。そのうえイギリスからの輸入商品には低い関税率を適用させ、事実上ラテンアメリカ諸国から関税自主権を奪った。結果、1810年から1825年までの間にイギリスとラテンアメリカ諸国の貿易額は10倍にも膨れ上がった。

イギリスがラテンアメリカに進出できたのは、再植民地化を牽制できるのがイギリスのみであったこと、領土的野心は持たなく、専ら貿易の自由と市場の確保に関心を示したに過ぎなかったことが挙げられる。

イギリスは1812年から1814年まで英米戦争を行った。1829年にはラテンアメリカは返済不能な状態となり『ロンドン金融市場のバブル崩壊事件』が起きた。

アメリカはラテンアメリカ地域に強い足場を築きつつあったイギリスに対して、明確な対決姿勢を示すことになった。その表明が1833年の『モンロー宣言』で、西半球の独立を擁護し、ヨーロッパ諸国の干渉を断固として排除する旨を宣言した。しかし当時のアメリカには実際的な力は持っていなかった。

ラテンアメリカ諸国の反米感情は1830年代のテキサス独立をめぐってメキシコで起き、テキサスを併合したアメリカに対してメキシコが宣戦を布告したが、国土の半分以上を割譲する屈辱を味わうことになった。

**苦戦するヘッジファンド

去年目覚しいリターンを叩き出したヘッジファンドも今年は僅か1.2%と苦戦が続いている。利益を出しているのは企業イベントに特化しているファンドのみである。

**なぜアクティブファンドはアンダーパフォームするのか

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