2014/07/25

街場の共同体論(1) 消費社会とかコミュニケーション能力とか


久しぶりに内田樹を読んだがやっぱり優しい。プラグマティックな人だからこそ発揮できる優しさってあるんですよね。こういうのは強さが備わっていないといえないものです。

父親不在と母娘関係は現代の文学的テーマとあったが、確かに勧められて読む本や映画は本当に父親がいない。そこに注目してしまうとなんだかそこの欠落こそがテーマなんじゃないかと見えてしまうのですがどうでしょうか。

その点においてガンダムUCは父と子をしつこいくらいに描いているので時代を上手く切り取っているのかもしれません。

良い部分が多くてまとめきれなかったので2回に分けて。

■父親の不在と強い支配力を持つ母親が現代日本の一つのテーマ

娘は母親に抗うために必死に工夫するが、息子は未成熟なまま加齢していくのが現代日本文学でホットなテーマとなっている。

今の男子に成熟化圧力がかからないのは、男はどう振舞ってもいずれは家族の誰からも関心を持たれない父親になる選択肢意外がないから。男親の個人的な実力は家庭内では発揮できない。イクメンは家庭内のプレゼンス低下に対する一つの対処策。

レヴィ・ストロースは親族に対して、どういう態度で臨むかは社会的な決め事であって、個人の意志で決定することはできないことを発見した。

■消費社会と家族の解体とおとな

『自分らしさ』や『かげえのない個性』というイデオロギーが流布したせいで、複雑な人格を持ちこたえることの重要性も、やり方も、みんな忘れてしまった。

消費行動がアイデンティティを構築するということになると、できるだけ『他の人が知らない商品』『他の人が持っていない商品』『他の人が欲しがらない商品』を選好するようになる。しかし欲しいものがオリジナルになればなるほど他人には共感されなくなる。

バブル以前までは自分が何者であるかは、消費行動ではなく、労働行動によって示すものだった。また子供の頃は他人の着ているものの良い悪いをあげつらうのは品のないことだった。

システム保全の仕事を自分の仕事と思う人がいないと、システムは瓦解する。そしてこの仕事はボランティアである。『こども』はシステムの保全はみんな仕事だから自分の仕事じゃないと思う。『おとな』はシステムの保全はみんなの仕事だから自分の仕事だと思う。

全体の7%くらい『おとな』がいれば現代の社会は回していけるのではないか。しかし現状では5%に近づいているように思える。

相互扶助システムというのは『強者には支援する義務があり、弱者には支援される権利がある』という不公平なルールで運営されている。個人の努力の成果は個人宛で返ってくるのではなく、共同体が共有する。残念ながら現代人はこのルールが良く理解できない。

『ひとりでも生きられる』ということを標準仕様にしている社会というのは、歴史上極めて例外的なものだ。『自分は誰にも迷惑をかけないし、かけられたくない』という人は、『他者からの支援なしでは生きられない状態』では生きられない。

■格差社会とは単一の度量衡で測られる世界のこと

幼児は『かつのて自分』、老人は『未来の私』、障害者や病人や異邦人は『そうであったかもしれない私』である。そうであったもの、そうなるもの、そうなるかもしれないものをすべて自分の変容態と見なすことができれば、集団とは端的に弱者を支援するシステムのことだということが解る。

身の程を知るとは、手持ちの資源で何ができるかやりくすることだが、現代人はそんな知恵を失ってしまった。これは身の程知らずの消費行動を社会的に要請されたから。

■学校教育は共同体の次世代を担いうる成熟した市民の育成

現代の愛国者が愛しているのは『同胞』ではなく、『自分と自分の同志』たちのことであり、駆動力は愛国心ではなく党派根性である。エリートも自分たちが受けた素晴しい教育の贈り物を、出来の悪い日本人と分かち合う気はない。

共同体成員の条件は何よりもまず、共同体そのもののパフォーマンスを最大化するために何ができるかを考えることであって、この共同体内部での自己利益を最大化するために何ができるか、を考えることではない。

■コミュニケーション能力とは、コミュニケーションが不調に陥ったときにそこから抜け出す能力のこと

どうしていいかわからないけれど、決断は下さなくてはならない。人生の岐路とはだいたいそういうもの。

わが国のエリートはあらかじめ問いと答えがセットになっているものを丸暗記して、それを出力する仕事には長けているが、正解が示されていない問いの前で、臨機応変に自己責任で判断するという訓練は受けていない。むしろ誤答を病的に恐れるあまりに、想定外の事態に遭遇すると何もしないでフリーズするほうを選ぶ。彼らにとって回答保留は誤答よりもましなのである。

立場が異なる者同士がわかりあえずにいるのは、それぞれがおのれの『立場』から踏み出さないから。

コミュニケーション失調からの回復のいちばん基本的な方法は、いったん口をつぐむこと、いったん自分の立場を『かっこにいれる』こと。

『相手に私を説得するチャンスを与える』というのは、コミュニケーションが成り立つかを決する死活的な条件だ。それはあなたの言い分が正しいか、私の言い分が正しいのか、しばらく判断をペンディングするということを意味する。

真理がいずれにあるのか、それについては対話が終わるまで未決にしておく。いずれに理があるのかを、しばらく宙吊りにする。これが対話で論争とは違う部分だ。説得とは相手の知性を信頼すること。