2014年7月17日木曜日

人生談義(下) エピクテトス


長いけどエピクトテトスの人生談義から。今回は下巻になる。時を見つけては読み直したい本。

■哲学の三つの部分

哲学のうちで第一の、そして一番必要な部分は、例えば嘘をつくなというような、原理の実行に関する部分である。第二の部分はその証明に関する部分で、例えばどこからして嘘をつくべきでないかというようなものである。第三はそれら自身に関する確実にして明瞭な部分で、例えばこれが証明であるのはどこからしてであるか、一体証明とは何であるか、帰結とは何であるか、矛盾とは何か、真とは何か、偽とは何かという如きである。

ところで第三の部分は必然的に第二の部分に基づき、第二の部分は第一の部分に基づいている。しかし最も必要にして、そこにとどまるべきもおは第一の部分だ。だが我々はあべこべなことをしている。なぜかというと我々は第三の部分の中で時を費やしているし、また我々は夢中になっているからだ。だが我々は第一のものをまるでおろそかにしている。だから我々は嘘はいうけれども、嘘をつくべきでないという証明は準備ができているわけなのだ。



誰某の息子が死んだ。『それは意志外のものである。従って悪ではないと』答えるがいい。

誰某がその父から遺産を相続した。君はどう思うか。『それは意志外のものである。従って悪ではない』

皇帝が彼に有罪を宣告した。『それは意志外のものである。従って悪ではない』

彼はそれらを苦に病んでいる。『それは意志的なものである。従って悪である』

彼は立派に辛抱した。『それは意志的なものである。従って善である』

もしわれわれがそのように習慣づけるならば、我々は進歩するだろう。

■短い

しかし彼は君をそこなわない。

では誰が妨げられない人なのか。自分のものでないものを、何一つ求めない人がなのである。

私はたしなみを、彼は護民官を、彼は将軍の役を、私は慎みを得ているのだ。

君も原理を普通の人々に見せないで、むしろ消化されたものに基づく行動を示すがいい。

理性的なものは君の持っているすぐれたものだ。これを飾り美しくすればいい。

知徳兼備の人の対象となるものは、自分の支配能力である。

もしわれわれが善と正しい意志の中におくならば、その諸関係を守ることそのことが善となる。

たとえ誰も気付かないとしても、自分が健全であり、幸福であることで満足するがいい。

知徳兼備の人は自分自身と争わないし、また他人をしてできるだけ争わせないものだ。

美は君の理性のある処、そこに成長するのだ。

君は死体を持ち運んでいる小さな魂なのだ。

これは不幸せではなく、それを立派に堪えることは幸せである。

何事にも私は失ったとは決していうな。むしろお返し申したといえ。

多くの場合は沈黙せよ、それとも止むを得ないことは話せ、しかも僅かな言葉で。

芝居に行くということは大方必要なことでない。

■少し長め

つまり自由は欲望の対象になっているものを満たすことによってではなく、欲望を除去することによって得られるのである。

彼が何をしているかは考察するな、むしろ君が何をする時君の意志が自然本性にかなうことになるのか考えるがいい。

立派に熱病を病むとはどういうことなのか。それは神をも人をも非難せず、出来事によって悩まされず、立派に死を期待し、なすべきことをなすことである。

彼らはどんな人々か。賢い人々か。愚かな人々か。もし賢い人々ならば、諸君はなぜ彼らと戦争をするのか。もし愚かな人々ならば、諸君に何のかかわりがあるのか。

もし益あって君が飲むならば、それらの人々を不満がっている人達にに対しては黙っているがいい。何?君はまさにこれらの人達の気に入ろうとしているのか。

君は男めかけとなったか。それが君の仕事であるか。放縦な女たちにに好かれるように君は生まれたのか。

諸君は気のきいたことでも、口先でしゃべるからであるだから言葉に張り合いがなく死んでおり、そして諸君の勧告やここかしこで話されているような憐れな道徳説を聴いた者は、嘔吐を催すのだ。

一体訓練している者は誰なのか。それは一方では欲望を抑え、他方では意志的なものに対してのみ回避し、しかもむしろ困難なことにおいて練習する人なのである。

隣人が悪いって?当人にとってはね。しかし私にとっては善い。つまり彼は私の寛大さと公平さとを鍛えてくれるのだ。

煤のついた人と親しく交際する者は、自分でも煤で黒くならざるを得ないということを記憶しておかなければならない。

我々は立派なことをいっているが、みっともないことをしている。あなたは反対のことをやって、みっともない説を立てているが、立派なことをしているのだ。

以前の習慣を逃れたまえ。普通の人々から逃れたまえ。一体諸君が何かになろうとし始めているのならば。

だから貧乏を放棄すべきではなくて、むしろそれについての考えを放棄すべきである。そうすればかくて我々はゆとりを持てるだろう。

音楽のわからない者は、音楽においては子供であり、読み書きのできない者は、読み書きにおいては子供であり、教養のない者は、人生において子供だからである。

大工でない者は人を大工にすることはできないし、また靴屋でない者は人を靴屋にするこはできない。

肉体に関する事柄で時間を費やすこと、例えば長時間運動をしたり、長時間食ったり、長時間飲んだり、長時間排便したり、長時間交際したりすることは才のないしるしである。

もし何か原理について普通の人々の間に話が出たら、大方沈黙しているがいい。というのは君は消化してないものをすぐ吐き出す危険があるからだ。

知徳兼備の人は何も立派に見えるためにではなく、立派に行動するためになすのであることを君は知らないのか。

彼は何を信頼してなのか。評判でもなければ財産や権力でもなくし、自分の力、すなわち我々の権内にあるものと我々の権内にないものについての考えを信頼してである。

何よりも前に君が注意せねばならないことは、誰か従前の知り合いや、友人と深く付き合って、その結果、彼と同じ程度まで成りさがることをの決してないよにするということである。

アテナイは綺麗です。うん、しかし幸福であること、つまり不動であること、平静であること、君の事柄を何物にも依存させぬということは更にずっと美しい。

君にはただ君自身を説得することだけが授けられているのだ。そして君はまだ説得していないのだ。だのに今君は何とまあ、他人を説得しようとしてるわけなのか。

そうすると君についての他人の意見は、どのような種類のものに属するだろうか。意志を越えているものに属します。そすると君に対して何でもないじゃないか。

彼らは官職に関して一所懸命になった。君は考えについて一所懸命になった。また彼らは富について一所懸命になったが、君は心像の使用について一所懸命になった。

うん、君が心を用いているのは考えにおいてでだ。だが他の人々が君よりも心を用いていることにおいては、君は彼らに譲歩するがいい。

彼はソクラテスではあるまい。ディオゲネスではあるまい。従って彼の賞賛は私がどういう人間かの証明ではない。

君はすべて行動の動機である考えがわかるまでは、行為を褒めたり、非難したりしないがいい。考えは外観からはたやすく判定されない。

君は他の誰によってでもなく、君自身によって追い出されてしまったのだ。君自身と戦うがいい。そして君自身を上品さ、慎み、自由の中へ救うがいい。

君は気高い行為を成し遂げて、優良な人として死ぬがいい。というのはどのみち君は死ななければならないのだから。

まず第一番に、人間としてなすべきことをなすためであり、次に出逢った人々を不愉快にしないためである。

ちょっぴり油がこぼれた、ちょっぴり酒が盗まれた。不動心はそれだけの値段で売られ、平静はそれだけの値段で売られているのだ。

外部の人々や普通の人達の宴会を避けよ。だがそういうと時があるならば無教養なことに陥らないように注意せよ。


■さらに長め

そこにあるものや、運命によって与えられたものに不満な者は、生き方に教養のない人々である。だがこれらを立派に辛抱し、それらに基づくものを筋の通るように使用する者は優良な人と見做される価値がある。

進歩した者のしるし、それは彼が何人も咎めず、何人も褒めず、何人も非難せず、何人をも責めず、自分自身についてひとかどの者であるかのようにも、何かを知っているかのように話さないことである。

およそ規定されたこれらのことは、もし踏み越えるならば、冒涜と思って、法律を守るように守るがいい。だが君について人が云うことには注意せぬがいい。というのはそれはもはや君の仕事ではないからだ。

書くことにおいてそれを妨げたり、拘束したりしないものはなにか。書き方の知識です。では竪琴においては何か。竪琴を弾く知識です。そうすると生きることにおいては、生き方の知識ということになるわけだ。

つまらぬことからして人を褒めたり、非難したりせぬがいい。また上手であるとか、下手であるとか確認せぬがいい。そすれば諸君は、諸君自身を同時に軽率からも、悪い習慣からも、解放することになるだろう。

『御覧、あの人は目薬を持っている。私も持っている』まさか君はそれらを使用する能力を持っているのじゃあるいまね。君はそれがいつ、どのようにして、そして誰に有益であるかを知っているのじゃあるまいね。

宴会に招待さら時、もし人が自分に魚や菓子を出すように主人に命ずるならば、彼は変に思われるだろう。だが宇宙では、我々は与えられていないものを神々に要求しているのである。しかも彼らが我々に与えたものが沢山あるのに。

死は意志外ののものである。棄て去るがいい。君は総督と逢ったのか。基準をあてがってみるといい。総督とはどんなものか。意志外のもか、それとも意志的なものか。意志外のものである。それも棄てるがいい。

しかしソクラテスは何といっているか。『他の或る者は自分の田地をより立派にしたと時に悦び、また他の或る者は馬をより善くした時に悦ぶように、私は毎日私自身がより善くなるのがわかる時に悦ぶ』と彼は言っている。

自分自身不幸な場合に、他人を非難することは無教養な者のすることであり、自分自身を非難するのは教養の初心者のすることであり、他人をも自分をも非難しないのは教養のできた者のすることである。

もし君が地上のものが欲しければ取るがいい。召使たちを取るがいい。官職を取るがいい。ちっぽけな肉体を取るがいい。しかし君は私が欲望しているに得そこなわせたり、回避しているのに避けそこなわせたりすることはできないであろう。

柔弱な青年たちを哲学へ激励することは容易ではない。というのはチーズは釣針では釣上げられないからだ。しかし素質のいい者は、君が思いとどまるように諌めても、なおそrだけ多くの知識に興味を持つのだ。

だが我々本来どんなふうにできているのか。自由であり、気高くあり、慎みがあるようにである。というのはどんな動物が赤面するだろうか、どんな者が恥じらいの心像を抱くだろうか。快楽を召使として、また奴隷として、これらのものに隷属せしめるがいい。

私の考えを学び、私に君の考えを示すがいい。そうすればかくしてこそ、君は私に逢ったといっていいのだ。互いに論駁し合おうじゃないか。もし私が悪い考えを持っているのであれば、除いてくれたまえ。もし君に考えがあれば出してくれたまええ。これが哲学者に逢うということである。

もし手がいっぱいであるなら、手を取り出すことはできない。それで泣き叫ぶのである。それから少し落とすがいい。そうすれば出すことができる。君も欲望を棄てるがいい。多くを欲望するな。そうすれば君は得られるだろう。

君自身の場合に、哲学はどんな人をつくるか彼らに示すがいい。そしておしゃべりをせぬがいい。食う時には一緒に食う人達に益を与えよ。飲む時には一緒に飲む人達に益を与えよ。皆に従い、譲り、辛抱し、かくて彼らを益し、彼らに君自身の唾をかけるな。

■長い

哲学するということはどういうことなのか。出来事に対して心構えをしておくことではないか。そうするともし私が出来事を静かに堪える心構えができているならば、何でも生起するがいい、と何かこのようなことを君がいっていることになるのだが、君にはわからないか。このため私は練習し、これを目的に鍛えたのである、というべきである。

争いとは何なのか。争論とは何なのか、非難とは何なのか、不平とは、不信心とは、無駄話とは何なのか。これらはすべて思いなしであって、他の何物でもない。そして意志外のものについて、あたかもそれが善いものとか悪いものであるように思う思いなしなのである。人はこれらのものを意志的なものと置き換えるべきである。

さあそれでは人間の場合には、馬の競走の場合においてのような優れたものと劣れるものとを判別するものが何もないのか。慎みや誠実や正義がそれではないか。君が人間として、より優れたものであるために、君自身をこれらのものにおいてより優れた者として示したまえ。もし君が私に、私は蹴るのがうまい、というならば、私もまた君に君は騾馬のやることで得意になっているのだ、と言おう。

諸君は諸君の意見を確立し、その中で訓練したまえ。ところがそうしないでむしろ諸君はここから見世物や検討やサーカスなどに行き、それから同じ人のままでかしこからここへ、そしてまたここからかしこへ帰っていくのだ。そして習慣も持たず、注意も持たないし、また自己省察も、また我々にやって来た心像をどう用いようか、自然本性に従ってか、それとも自然本性に逆らってか、これらに対して何とこたえようとか、あるべきようにとか、或いはあるべきでないようにか、意志以外のもに対しては、それは私にとって何のかかわりもないと答えようか、という観察も持たないのである。

このように準備と訓練とを経て、君自身のでないものを君自身のものから、また妨げられるものを妨げられぬものから区別し、後者を君のものと思い、前者を君のものと思わないで、後者の場合に勤勉に欲望し、前者の場合に忌避するならば、君はもう何人をも恐れるようなことはあるまいじゃないか。

というのは彼は誰も他人の支配能力の支配者でないことを、非常に夜良く記憶していたからだ。それで彼は自分のもの以外のものは何物も欲しなかった。ところでそれはどういうことだろうか。それはこの人が他人に自然本性に従って行動するように干渉しないことである。なぜならそうすることは彼のなすべきことではないからだ。

もし結婚が許されるならば、それを材料にし自然本性に従って自分を維持することだ。もし彼が息子、或いは妻に過失のないことを欲するのであれば、それは他人のものを他人のものでないように欲しているのだ。教養を受けるということは自分のものと他人のものとを学ぶということである。そするとおのような心がけの人にとっては、どこになお争う余地があるだろうか。

私は何者なのだろうか。ちっぽけな肉体ではあるまい。財産ではあるまい。名声ではあるまい。それらの何物でもないのだ。でなくして何なのであろうか。私は理性的な動物である。と考えるがいい。そすすると要求されているものは何なのか。行為を反省してみるがいい。

**重力波を観測

宇宙誕生時に発生したと考えられている重力波が観測された。これはビックバン理論の支持を裏付けるものになり、今世紀に入って宇宙論としては最大の発見となる。Bicep2 telescopeで観測された重力波は宇宙誕生から38万年経ち冷却されたあとに放出されたものになる。重力波はアインシュタインによって予言されていた。

**教科書改訂問題

日本だけでなく、ロシア、ハンガリー、中国などでも教科書問題は起きている。ロシアではプーチンが多くの教科書を思想的に屑とし、ソ連は東側諸国をファシストから守ったことを中傷しているとした。ハンガリーでも第一次世界前のハンガリーを目指す右極政党がある。中国も日本を批判するが毛沢東下での大躍進政策や文化大革命での失敗を隠している。大事なのは第一に歴史的事実は認めること。第二に議論を促すことだ。

**コモディティ価格の上昇

コーヒー、小麦、砂糖、ベーコン、オレンジジュースなどのコモディティ価格が上昇している。原因は天候不順、ウクライナ情勢、疫病などである。去年は豊作で価格が大きく下落していたのは対照的である。最も上昇幅が大きいのはコーヒーで70%の上昇となっており、これにはブラジルの旱魃が影響している。

**ジャンク債ブームは終わりの時期か

Fedによる5年の金融緩和により利回りを探す投資家はジャンク債を買ってきた。しかしデフォルト率の上昇につれて今までの環境は変化するかもしれない。CCCの利回りは5.1%だが居円は5.8%だったが、流動性に欠け全員が一気にポジションを解消に向おうようなことがあると危険である。