FTの一面で大きく扱われている。憲法改正については延期。
**EUの住宅価格7年ぶりの安値
ただし国によって違いがある。スペインは何千という居住者のない住宅があり苦しむ一方で、ドイツは10年ぶりの高値となっている。イタリアはEUの平均レベルで下落しているが、今後加速する懸念がある。
**銀行はバランスシートを縮小させる必要がある
33兆ユーロのバランスシートから2.7兆ユーロ減らさなければ、次の金融危機の際に中央銀行が助けるのは難しくなるとRoyal Bank of Scotlandのアナリストが指摘。対GDP比でみると米国は同じ、日本、カナダ、オーストラリアは2倍、EUは3.5倍になっている。
**日経平均は68円高の14658円
参院選は織り込み済み。テレ東、セブン銀行が最高値更新。海外では金が戻し1337ドル。JNJ,WFCが再び高値をとってくる。
**がんばって省略してみた年表
1940年09月27日 日独伊三国同盟
1941年04月13日 日ソ中立条約
1941年04月17日 日米諒解案
1941年06月22日 ドイツ、ソ連侵攻
1941年07月23日 南部仏印進駐
1941年07月25日 米国、在米日本資産凍結
1941年08月01日 米国、石油輸出制限発表
1941年08月04日 近衛首相、日米巨頭会談構想を提案
1941年09月06日 帝国国策遂行要領 決定
1941年10月18日 東条内閣成立 国策白紙還元
1941年11月01日 帝国国策遂行要領、乙案 決定
1941年11月26日 ハル・ノート提示
1941年12月01日 開戦を決定
外交交渉案を巡る攻防も面白いがさすがに細かすぎてまとめられない。
**1941年04月17日 日米諒解案
・支那の独立
・日支間に成立すべき協定に基く日本軍の支那領土からの撤退
・支那領土の非併合
・非賠償
・門戸開放方針の復活
・蒋政権と王政権の合流
・満州国の承認
したがって太平洋で日本と事をすぐに構える感じではなく、この日米諒解案も叩き台とは言え、その後に比べればだいぶ日本側にとって条件が良い。
事実、日本側も大勢はこれに乗るつもりだったようだが、外相の松岡洋右は日独伊ソの四国でもって対米をする考えだったので反対され没に。
ここでも首相に大臣の任免権がないので、松岡外しのために第二次近衛内閣は総辞職する事になり、時間を浪費。
第三次近衛内閣が成立するのは7月18日なのでこの間に独ソ戦が開始されてしまい、国際情勢は大きく動いてしまう。
**1941年09月06日 帝国国策遂行要領
1.自存自衛のため、対米戦を辞せざる決意のもと、10月下旬を目処として戦争準備
2.これと併行して米英と外交交渉をし、要求の貫徹を目指す
3.10月上旬となっても要求を貫徹できる目処がない場合は、直ちに開戦決意
外交交渉の最低ラインは
・米英の日中戦争への介入阻止 蒋援の阻止 撤兵問題なども
・米英の極東における軍備増強の停止
・日本の所要物資獲得への米英の協力
遂行要領がまとめられた背景としては、日米巨頭会談に対する期待、最悪の事態に対する備え、準備をするならこの時期、陸軍の対ソ戦に関する海軍の牽制など色々あってややこしい。
それから外交交渉の条件を巡っては参謀本部と外務省が綱引きをしだし、しかもそれは文言をどう扱うかであったので複雑さが増す。
交渉自体は結局、陸軍の強硬な姿勢が勝ち米国から10月2日に日米巨頭会談に否定的な回答が寄せられる。
ここで帝国国策遂行要領に従えば、開戦を決定なのだがそうは問屋が下ろさない。
**国策の白紙還元と東条内閣成立
近衛は駐兵問題を巡って東条を説得しにかかったが失敗し、突然の総辞職。
陸軍を統制しないと外交交渉が進まないということで、陸軍大臣であった東条に逆に内閣をやらせることになる。国策は白紙撤回され再検討という流れに。
ここらへんは陸軍に撤兵案を飲ませてなんとか開戦は避けたいという苦慮が見えますね。。。
ちなみに本命は東久邇宮稔彦による皇族内閣だったが、万一敗戦だとまずいとうことでこれは選ばれず。
**国策再検討
なんかここらへんはつぶさにみても馬鹿らしいというのが正直なところ。
前提としてまずドイツの不敗体勢が想定されているんですが、これは米が参戦しないのが前提になっている。前提の前提は検討されない、というか考えないようにしている。
昭和16年夏の敗戦でも言及されていた輸送船問題の数字操作なんかもこのあたり。
鈴木企画総裁は戦争を起こさず臥薪嘗胆をした場合、海軍から航空機用ガソリンは34ヶ月、自動車用は26ヶ月で0になると説明され、ここでは開戦派に転向。
海相の嶋田も、いままで庇護して出世街道に乗せてくれた伏見宮からの圧力でこちらも転向。
この時点での海軍の考えは戦争をやるなら艦隊比率が最も有利な時期にやりたいというものだが、だからといって3年先以降の具体的なプランはなし。
**1941年11月01日 帝国国策遂行要領(2回目) と 乙案
1.武力発動の時期を12月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を完整する
2.対米交渉は別途用紙により之を行う
3.独伊との提携強化を図る
4.武力発動の直前、タイとの間に軍事的緊密関係を樹立す
5.対米交渉が12月午前零時迄に成功せば、武力発動を中止す
甲案がだめなら乙案という2段構だったが、甲案は譲歩が少なて早々にアメリカから拒否される。
またハルの原則論が明らかになり、それをまともに受け入れると日本は中国からの既得権は完全に放棄させられ、かつ経済制裁は続くことが判明。これは陸軍がかねてからもっとも避けるべき事態だった。
そこで乙案。
南仏印から撤兵する代わりに石油供給の確保を目指す狙い。ただし援蒋の停止を陸軍が取り下げないので難しい部分も。
1.日米両国政府はいずれも仏印以外の東南アジア、太平洋地域に武力的進出を行わない
2.日米政府は日中間の和平が成立が成立するか南太平洋の公正な平和が確立した上は、現に仏印に派遣されている部隊を撤退させる旨を約束する。本協定成立後、日本政府は南仏印駐屯中の兵力を北部に移駐させる用意がある
3.日米両国政府は、蘭印における両国の必要物資の獲得が保障されるよう、相互に協力する
4.日米両国政府は、相互に通称関係を資産凍結前の状態に復帰する。アメリカ政府は所要の席の対日供給を約束する
5.アメリカ政府は日中両国の和平に関する努力に支障を与えるような行動を慎む
これに翌日
・日本の三国条約の解釈は他の締約国の解釈に拘束されないこと
・三国条約には秘密協定は存在しないこと
を加える。
**米国側の原則論と暫定案
暫定案は、日本がこれ以上の武力進出をしなことの意思表示として南仏印から撤退すれば、その代償として3ヶ月は一定程度の物資を供給する、となる。
ほぼ乙案と同じようだが、禁輸措置が限定的である点が違う点になる。
ちなみにハルはハル・ノート(原則論)とこの暫定協定案を一緒に日本側に渡すつもりだったが、26日にハルが変心し、ハル・ノートだけを渡すことになる。その変心の理由は謎らしい。
中国側はこの暫定協定案に危機を募らせ、アメリカ政府に反対の電報を洪水のように送りつける。
**1941年11月26日 ハル・ノート
中国と仏印から全面撤兵なしには通商関係の回復しない、という解釈をするのが普通の文書。蒋政権とわざわざ固有名詞を出すのも頑な印象を与える。
暫定協定案とセットならハル・ノートは原則案であり、即座に行うものではないと理解できるが、暫定協定案が外されたことにより、アメリカが交渉を事実上放棄してきたと日本にとられてもしかたない。
1.英、中、日、蘭、ソ、泰、米間の多辺的不可侵条約締結
2.仏印の領土主権の尊重とそのための協定
3.中国・インドシナの日本軍・警察の撤退
4.蒋介石政府以外の中国政府の否認
5.中国における一切の治外法権の放棄、同様のことを英国やその他の政府に働きかける
6.日米通商協定締結協議の開始
7.資金凍結解除
8.円ドル為替安定のための出資
9.三国同盟の廃棄
10.他国政府に対してこの協定の基本的な政治的経済原則の遵守と適用を働きかける
**1941年11月29日 重臣会議
交渉がまとまらないからといって、即座に開戦は無謀ということで吉田茂らが重臣会議を発案。
重臣会議は東条に反対されたが、天皇が自分の前で懇談ならどうかということで行うことになる。
政府側は東条首相、東郷外相、賀屋蔵相、嶋田海相、鈴木企画院総裁が出席し、重臣側は若槻、広田、近衛、平沼、岡田、米内、林、阿部ら総理大臣経験者。
政府案に賛成したのは林、阿部の陸軍出身者のみで、他は現状維持を主張。強く反対したのは若槻と岡田。
これらは法的な制度からの反撃であったから、法制上は内閣決定が正しいが、明治憲法はいってみればこういう法制外の重臣で決められた経緯もあり、最後の最後でそれが復活したということだろうか。
**感想
最初に書いたようにこれでもだいぶはしょっているけど、こうやって実際にブログに書いてみると色々整理され内容が頭に入って来るので時間はかかるけどなかなかに良い感じ。
最後の最後に重臣会議があったのもまとめているうちに初めて気付いたし、単に読んでるだけとはちょっと違うのかもしれません。
最後に読んでいてどうにも面白かった部分があるのでその部分を引用。近代史会でもこの本を演劇にしたらコントになるといっていたが、確かにそう要素はたぶんにある気がする。
7月30日、富岡ら中堅層の強硬論に影響された永野軍令部総長は、参内して天皇に早期開戦論を上奏した。驚いたのは天皇である。さらに天皇を驚かせたことには、永野は開戦しても勝利の見通しがつかないと率直に説明したのである。
日本はなぜ開戦に踏み切ったか P.54