1.西部戦線
2.東部戦線
3.アフリカ戦線
4.大西洋
5.地中海、イタリア戦線
6.北欧
7.中東
8.太平洋
9.インド・ビルマ・中国
今回は東部戦線。ロシア広すぎですが、現アゼルバイジャンのバクーまで行こうとするヒトラーも普通ではありません。またポーランド、ルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラビア、ギリシャといった国々の動向もそろぞれで、戦後をめぐる動きにもなっています。
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41年6月22日にドイツ軍はいっせいにソ連に侵攻を開始した。ヒトラーの目的は東方にゲルマン民族のレーベンスラウム(生存権)を確立すこと、戦争遂行に必要な穀物と石油の確保であった。
バルバロッサ作戦は3つの軍集団に分けられた。
北方軍集団は3個機甲師団、2個自動車化師団、24個歩兵師団。指揮官はレープ。目標は東プロイセンからバルト三国、そしてレニングラードでフィンランドとの接続。
中央軍集団は1個装甲師団、9個機甲師団、6個自動車化師団、33個歩兵師団。指揮官はボック。目標はスモレンスク、モスクワ。
南方軍集団は5個機甲師団、3個自動車化師団、34個歩兵師団、ルーマニア軍。指揮官はルントシュテット。ウクライナからロストフ。
軍はロストフを後回しにしてモスクワ攻略を第一にすることを主張したが、ヒトラーはレニングラードとウクライナ攻略を主張。
結果、スモレンスクを攻略した中央軍集団のホート、ヘプナーの機甲師団をレニングラードへ、グデーリアンの機甲師団を南へと進撃させ1ヶ月という時間を空費する。この決定がなければモスクワは陥落していたと言われる。
41年9月に北方軍集団はレニングラードを包囲。これは44年1月まで続くことになる。中央軍集団はスモレンスクを制圧。南方軍集団はキエフを占領。が、ドイツは補給に苦しみだす。
同9月にモスクワ攻略の『台風作戦』が始動。苦戦しながらも11月末にクレムリンに25kmまで達するが、ソ連の増援や冬装備、冬などにより失敗が明らかになる。
41年12月5日にソ連はレニングラードからクルスクに至る950kmの前線で一斉に反撃を開始、戦線を80km押し戻しモスクワの危機を救った。
42年夏にヒトラーは東部戦線で大攻勢をかける準備を整えた。目標はカフカスの石油と南進によってトルコに圧力をかけること、北アフリカで攻勢をかけているロンメルと連結させることであった。
42年7月にこれを実現するため、南方集団をA軍集団とB軍集団に分割。B軍集団はスターリングラードに進撃。A軍集団は南カフカス地方を進撃しバトゥミとバクー油田を目指した。
B軍集団のパウルスは42年9月にスターリングラードに突入したが市街戦で苦戦。逆に包囲され1月に降伏。B軍集団が西に退却したためA軍集団は包囲される可能性がでたので退却。ソ連は43年2月にハリコフを落とすが、逆に伸びきった補給線をマンシュタインに突かれ3月にハリコフは再びドイツの手に落ちる。
43年7月にドイツはソ連の突出部を攻撃し、クルスク戦車戦を行ったが敗れた。ソ連はその勢いに乗り9月にハリコフ、11月にキエフを攻略しポーランドを目指した。
44年1月には長期に渡ったレニングラードの包囲も解け北方集軍団は後退する。ソ連はそのままフィンランドに攻め入り9月に降伏させた。10月にはリガも攻略し北方軍集団を包囲した。
クリミア半島は44年5月にソ連に奪回しバルカン半島に向う。44年8月にはルーマニアが連合国との講和交渉に入り下旬にドイツに宣戦布告をしたが、既にチャーチルとスターリンの間でバルカン半島の分割が決定されており、ルーマニアはソ連の衛星国家となる。ブルガリアも同じ運命を辿った。
しかしハンガリーは違いドイツの防衛軍により45年2月まで粘ることになる。ユーゴスラビアは既にチトーが大部分を奪還していた。ギリシャは44年10月にドイツ軍が撤退し、変わりにイギリス軍が入ったが共産主義者と国王派に分かれて二次大戦後にも続く内乱状態になった。
東部戦線の中央部では45年1月までの5ヶ月は大きな動きがなかった。ソ連の『バグラティオン作戦』も息切れしていたからである。しかし1月から再び動き出し1月の末にはベルリンから80kmまで進出した。そして4月にベルリンに本格攻勢をかけ10万人の損害を出しながらもこれを落とした。