2014/07/30

街場の共同体論(2) 弟子のポジションはいくらでも間違えることができる


年長者は若者の成熟に手を貸すべき、弟子のポジションはいくらでも失敗できるということが書いてある。

前者はそうか確かにそうだなと思い、後者はまさにそうなんだよという共感部分と言える。私にとっては競馬が相場が師であるといえるが、研究者なども真理を師とすればその過程ではいくらでも間違える事ができるだろう。間違った部分は少なくともそうではなかったという証明になるからだ。

自分では決定しないということやそこから来る成熟という方向性、下を引上げる、ここらへんもなかなかに強力な部分だ。

■縦軸の人間関係を取り戻す

日本に限らず現代人が失った最も希薄な人間関係は、主従関係と師弟関係だ。圧倒的な上位者に全幅の信頼を寄せてまるごと身を委ねるというタイプの人間関係は、近代市民社会における契約関係とは異質なもの。

いまの人達は自分がこれから行う努力について、始める前に値付けを行う。しかし本当の人間的能力は事後にしか解らないというのがこれまでの常識であった。

主従関係とか師弟関係とかは『人間は変化する』ことを軸足を置いた人間関係なので、関係が始まる地点では、その人が何者であるかということはほとんど問題にならない。時間をかけて成熟してゆくから。

人は実際には長い時間をかけて様々な機会に遭遇し、想像を絶した状況に投じられたあとに、それぞれの才能は開花する。

家族は幼児や老人や病人を抱え込む、弱者にもフルメンバーとしての居場所を保証するのが家族の本来の責務。

今の日本には若い人の成熟を支援するという発想が欠如している。

教育というものは非対称な関係の中で、上位者が未熟で非力な若者を一方的に保護し、支援するという形でしか始まらない。そうやってはじめて次世代を担うことのできる後継者を育てることが出来る。でも行政はそういう『物語』を持っていない。

このままでは未熟な若者たちが、一定の時間を経過したのち、必ず『未熟な老人たち』になる。日本社会全体がその集団性格として『未成熟・利己的』なものになる。

縦軸の人間関係を取り戻す。一方的な贈与だ。でもそれはただの持ち出しではない。我々が先行世代から贈与され、支援されてきたことへのお返しだから。パスされたからパスする。それだけのこと。

共同体の最優先の課題は、子供を育てること、若者たちの成熟を支援すること。

学ぶことの本質は、師から教えられたことを、自分で受け止めて、整えて、付け加えられるものがあれば付け加えて、次の世代につなぐこと。

■年長者は若者の成熟に手を差し伸べるべき

現代はセミ・パグリックがぽこっと空いている。一方にやせ細った『公』があって、他方に病的に肥大化した『私』があり、この中間をつなぐものがない。

公共的でない人というのは自分に居ついている。自由な言論が行き交う場を『きれいに使う』という配慮が無い。場に対する『敬意』がない。共同体を立ち上げようとすると、言葉遣いが慎重になる。

次世代の担い手は『先行世代の成功例を真似る人達』からではなく『先行世代の失敗例から学ぶ人達』から出てくる。

若い人たちの成熟を支援するためにはとにかく上から手を差し伸べて引っ張り上げないといけない。年長者が若者を支援しなきゃダメ。

『自力でやれよ』で放置しておくのは『お前達が未熟なままでも非力なままでも、無能なままでも、それは全部自己責任だから俺は知らないよ』と言っているのと変わらない。

駆け出しであったときに、幼い愚行を大目に見て忍耐強く成長するのを待ってくれた共同体に帰属していたことを『ありがたい』と思う。父権制的なプロモーション・システムって悪いことばかりではない。

階層上位者は自己利益や自分らしさを追求したことでなはなくて、ある政治共同体の中で自分が果たす役割を忠実に演じている。成功している人は自己決定しない。

階層上位者はだいたいいい人。自己主張が控えめで、礼儀正しくて、穏やかでユーモアのセンスがある。当たり前で自分の帰属する共同体の中で、まわりに気遣いながら、なるべく嫌われないようにやってきてから。階層が下に行くほど、人間が狭量になり、意地悪になり、怒りっぽくなってくる。ほんとうにものを訊かない。

階層社会では上位にたどり着けるのはいい人だけ。知らない事を知らないといえる人、他人の仕事までも黙ってやる人、他人の失敗を責めない人。その人達だけが相互支援、相互扶助のネットワークに呼び入れられ、様々な支援を受けることができる。長期的に利益を確保しようとしたら、周囲の人達の利益に気を遣ったほうがいい。こんなの常識だが現代日本では非常識になっている。

■弟子のポジション

いったん弟子のポジションを取ったものは無限の解釈運動に巻き込まれる。自学自習のサイクルに入り込む。学ぶというのは何かの実定的な知識や技術や情報を学ぶことではなく、学ぶ仕方を学ぶということ。弟子は師からそれを学ぶ。

弟子は自分を守る必要がない。自分の今の手持ちの知的なフレームワークや、今の自分が使える技などはいつ捨てても平気である。

だから『知らない』『できない』といことによるストレスがない。いくらでも間違えることができる、いくらでも失敗することができる。この広々とした『負けしろ』が弟子というポジションの最大の贈り物。自分に居つかないでいられる。この開放性が弟子であることの最大のメリット。たぶんこれを発見したのは孔子。

わかるところはどうだっていい。自分なんかに解ることなんかに対して意味は無い。問題は解らないところ。

師がある人とない人では全然違う。人生の問題の半分以上は師を持つかで解決してしまう。