2014年2月28日金曜日

たまには勢いにかまけて命題を立てみる

タイミングは存在するのかしないのか。

我々は何かをするに当たって効果的な時節があるということを経験的に知っている。AとBが成り立てばCだろう。少なくともCの成り立つ確率が相対的には高いはずだ、というものだ。

大数の法則に従えばサンプル数が多ければ、主観的であれ、なにがしかの確率に収束するはずである(もちろん分散はあるし、母集団がそもそも大数の法則に従うのか、エルゴード性が成立するのかといった種々の問題はある)

問題は我々の人生が有限であることと、認知的資源が有限であることである。人間の生命は少なくとも現在のところ有限である。せいぜい80年程度で何がしかの事象を想定した場合なかなか大数法則に適用できるような経験を踏むことができない。

さらに輪をかけて問題なのは、その想定した事象をなにを持ってその事象かということは時間の関数であることことだ。言い換えれば、年齢を重ねることによって外見的には同じ出来事であっても、解釈が変わるということだ。

時間が退行しない以上(一般的な意味で)我々はそれを事後的にしか把握できない。子供の頃に大人と同じ判断基準で物事は下させないということだ。もちろんこれは逆にも言う事ができる。経験が不足しているからこそ行動できたという側面は誰の胸にも覚えがあるだろう。

さてそうなると我々がいま現在思っているタイミングというのは本当に到来するのだろうか。到来するということは論理的にあり得ないというのは簡単だが、その一方で現実的な制約であったりそうはいってもある種のタイミングというのは存在するだろう、ということも経験的に知っている。

いま思っているタイミングというのは常に揺れている。しかし揺れながらもある種の幅もある。

そのタイミングを来るのを待つ、タイミングの定義が変わるのを受け入れる、タイミングはあるかもしれないが一回きりの人生なので来ないというリスクは引き受けたくないので自らが変えていく、など色々バリエーションは考えることはできるだろう。

タイミングを時間的な関数であると定義した時、果たしてタイミングとは存在するのか存在しないのだろうか。どれを選ぶかは各人の選好に拠るものだろうか。

かつてジャンボ鶴田はこう言った。「人生はチャレンジだ.チャンスはつかめ」と。

と、100の思考実験ぽく。