2013年9月29日日曜日

昭和天皇独白録(1)


本書は、昭和21年の3月から4月にかけて、5人の側近が張作霖爆死事件から終戦に至るまでの経緯を4日間5回に分けて昭和天皇から直々に聞きまとめたものを、太平洋戦争勃発時にワシントンで外交官をしていた寺崎英成が筆写したものと考えられている。

昭和21年と振り返る形で日記でも備忘録でもないことから2次資料という扱いらしいが、昭和天皇の率直な言葉と考え方に触れておくのは良いと思う。


・張作霖爆破の時、田中義一は最初首謀者の河本大作大佐を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表するとしてきた。しかしその後の閣議で処罰は不得策だとしてうやむやにするという事を報告してきた。そこで、それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で言った。

結果、田中は辞表を提出し総辞職した。もし軍法会議を開いて訊問すれば河本は日本の謀略を全部暴露するといったので、軍法会議は取りやめになった。

この時、田中内閣がつぶれたのは重臣ブロックのためだという言葉と空気が作られ、2・26事件もこの影響によるところもある。

この事件あって以来、内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持っていても裁可を与えることに決心した。

・2・26事件と終戦の時だけは積極的に自分の考えを実行させた。

・石原莞爾という自分は良く判らない

・盧溝橋事件に対して近衛は不拡大方針だったので陸軍の強硬論を抑える意味を持って板垣征四郎を陸軍大臣に用いたが、ロボットになってしまい、却って強硬となった。国内世論は倦怠の兆しがあったので、陸軍内部には日独伊三国同盟を締結し国民の敵愾心を英米に向け、支那の方はうやむやにして終わるという空気が起こった。

・宇垣一成は聞き置くという、場合によっては承知と思い込むことがありうる言葉を良く使ったので、総理大臣にしてはならないと思った。

・三国同盟に関しては秩父宮と喧嘩をして終わった。また陸軍大臣とも衝突した。板垣に同盟論を撤回せよといったところ、では辞表を出すといい、彼がいなくなるとますます陸軍の統制がとれなくなるので遂にこのままとなった。

・御前会議とはおかしなものだ。枢密院議長以外の出席者全員は意見一致のうえに出席しているので、議案に対し反対意見を言えるのは枢密院議長だけだ。全く形式的なもので、天皇には会議の空気を支配する決定権はない。

・日独同盟論を抑える意味で米内を総理大臣に任命した。

・同盟論者の趣旨は、ソ連を抱きこんで、日独伊ソの同盟を以て英米に対抗し、日本の対米発言権を有力ならしめんとするにあったが、一方独乙の方からいえば、これをもって米国の対独参戦を牽制防止せんとするにあったのである。

・日独同盟を結んでも米国は立たぬというのが松岡の肚である。

・三国単独不講和確約は結果からみれば終始日本に害をなしたと思ふ。

・松岡のやる事は不可解な事が多いいが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人の立てた計画には常に反対する、又条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持っている。

・近衛は財政の事は暗いし結局私は軍部の意見しか聞くことができなかった、今から考えるとこの仕組み(大本営政府連絡会議)には欠陥があった。

・高松宮も砲術学校にいた為、若い者にたき付けられ戦争論者の一人であった。近衛、及川、豊田の3人は平和論、東条、杉山、永野の3人は戦争論、皇族その他にも戦争論は多く、平和論は少なくて苦しかった。

・海軍は和戦の決定は総理大臣に一任するという肚である。

・東条、及川、豊田が候補にあがったが海軍は首相を出すことに絶対に反対であったので東条が首相に選ばれる事になった。それで東条に組閣の大命を下すに当たり、憲法を遵守すべき事、陸海軍は協力を一層密にする事及時局は極めて重大なる事態に直面せるものと思うという事を特に付け加えた。

・閑院宮を参謀総長にしたのは(昭和6年12月)当時陸軍部内に派閥の争いがひどくなって誰も総長に出る者がなかったから。海軍もロンドン会議以来内部は乱れていたが、既に陸軍に閑院宮の先例が出来たので、海軍の要求を容れて、伏見宮に軍令部総長になってもらった。

しかしこの決定は連絡会議等に本人が出席されず、次長のみが出席するという変化事になり、またロボットになった傾向もみられたので、参謀総長は杉山に、伏見宮は病気になったので変わってもらった。

・若しあの時、私が主戦論を抑へたらば、陸海に多年の練磨の精鋭なる軍を持ちながら、むざむざ米国に屈服すると云うので、国内の世論は必ず沸騰し、クーデターが起こっただろう。実に難しい時であった。

・戦争に反対する者の意見は抽象的であるが、内閣の方は数字を挙げて戦争を主張するのだから、遺憾ながら戦争論を抑へる力がなかった。

・私は立憲国の君主としては、政府と統帥部との一致した意見は認めなければならぬ、若し認めなければ、東条は辞職し、大きなクーデターが起こり、却って滅茶苦茶な戦争論が支配的になるだろうと思い、戦争を止める事については、返事をしなかった。


以下は注記。


・イギリス式の立憲君主方式を理想としている西園寺に、自分の意見を直接に表明すべきではない、と諌められた昭和天皇はのちに、あの時は自分も若かったから、と鈴木侍従長に述懐している。以後、次第に政府や軍部の決定に不可をいわぬ沈黙する天皇を自ら作り上げていった。

・統帥権干犯という言葉は北一輝の造語と言われている。

・昭和天皇は天皇機関説に賛成であった。

・2・26事件の重要な動機は、天皇親政・統帥権絶対の実現を期して行われたと言ってよい

・盧溝橋事件の際、作戦部長石原莞爾の事変不拡大方針に真っ向から反対したのが武藤章。

・八回の御前会議のうち、ただ一回(16年9月6日)を除いて、昭和天皇は無言のうちに国策を裁可した。

・一度政府で決して参ったものは、これを御拒否にならないというのが、明治以来の日本の天皇の態度である。これが日本憲法の実際の運用の上から成立してきたところの、いわば慣習法である。と東京裁判で木戸幸一は証言した。

・米内内閣を倒したのは、畑俊六陸相の辞表提出にあった。畑は必ずしも三国同盟に賛成ではなかったが、陸軍の総意に押しまくられて辞表を出したのである。

・憲法遵守、条約違反は一切許さず、という万事においてきちんとした昭和天皇の人柄そのままでている。ドイツと単独不講和を確約した以上、それを守るばかりである。

・大本営連絡会議は、首相、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長の6名が対等であり議長はなかった。結果、軍部にイニシアチブをとられ、軍の要求する事項に対し、政府が協力するという形に終始した。

**笑顔の背景

米とイランは34年ぶりに公式の会談を持った。Rouhaniは米国民の好意を勝ち取るため、確執を忘れ結果指向の話し合いを求めた。またtwitterも用いた。実質の話し合いは10/16からGenevaで始まる。イランは経済制裁の緩和、西洋諸国は各施設の停止など長いリストを持っている。

ワシントンの視点から見るとイランとの和解は、サウジアラアの中東での主導権とイスラエルの立場にストレス与える。しかし核問題が解決されればシリアの内戦問題も容易になりイランとの戦争も後退する。そして両国ともにアルカイダやタリバンが共通の敵だということに気付く。ただし失敗した場合はイランが時間を買ったと批判されることになる。

一番の障害はObama-Rouhaniの間にあるのではなく、Obamaと議会、RouhaniとAytollh Khameneiの間にある。しかしイランはインフレ率が39%、若年失業率が28%に達し、Rouhaniは経済を立て直すことを選挙で約束して当選したので、和平に乗り出す強い動機がある。

rapprochement 和解する

**米の債務上限問題

オバマケアを巡って民主党と共和党が対立している。議会は10月1日には法案を通さなければならない。通らないままだと10/17に予算が払底することになる。しかし株式市場や債券市場は既にこれを織り込んだ値動きをしている。

repeal 撤回する

**科学者が温暖化を警告

ストックホルムで開かれたIPCCの総会で、化石燃料による温暖化がリスキーなレベルになるのに30年とした。また地球温暖化は過去60年の人間の活動によるものとした。産業革命以来500ギガトンの二酸化炭素が排出された。2Cの温暖化には300ギガトンの余裕があるが、毎年人間は10、11ギガトンを排出している。2Cの上昇になった場合はグリーンランドの氷が溶け、1.4m~4.3m水位が上がるとしている。