2013/10/19

主戦か講和か(6) 東条退陣と杉山陸相、梅津参謀総長 主戦派の再編制


44年7月に東条内閣は退陣した。その結果、陸軍大臣に杉山、参謀総長に梅津が就任することとなった。

杉山は自らの意志はなく、強いものになびく傀儡と見られていたようである。しかし、陸軍内で権力が一箇所に偏在しなように配慮していた隠れた一面もある。仕事を淡々とこなす能吏型の職業軍人であったというのが実際のところだろう。

梅津はミズーリで降伏文書に調印するという不名誉な役目を負わされた人物として有名である。陸軍次官として2・26事件の粛清人事を毅然とした態度で実行した後、39年9月に関東軍司令官となりソ連に付け入る隙を与えずに44年7月まで司令官の地位にいたことから手腕の高さを伺える。一方で周囲を見回し、次期政権を狙うような政治的野心の強い人物ともされている。

杉山陸相の梅津参謀総長に対する信頼は厚く、陸軍大臣の権限である人事権を梅津に任せていたことからも解る。実質的に梅津は陸軍大臣、参謀総長の兼任という具合だったようである。杉山と梅津の息はぴったりで、相互の行き来は従来に見られない光景だった。

当時の上級幹部の人事は、陸軍大臣、参謀総長、教育総監の3長官が話し合って決めていた。最終的な人事権は陸軍大臣にあったが、3長官が集まるのは意見が分かれたときに多数決ができるようにするためである。

梅津・杉山を中心とした中間派は、表向きは戦争継続路線に賛意を示しながらも、裏では早期講和派に理解を示すことで、主戦と早期講和を天秤にかけて、陸軍独自の戦争終結方法を模索することになる。

43年秋にかけて松谷が真田作戦課長と対立したとき左遷されなかったは、天皇の意向を重視し、松谷の終戦案に理解を示していた後援者・杉山が存在したからである。

東条より年長の杉山が参謀本部のトップにいる限り、内閣や陸軍内では絶大な東条の影響力も、参謀本部内の人事には簡単には及ばなかったと思われる。闘争心と統制力の強い東条陸相でも杉山参謀総長より5年後輩で慎みがあったと回顧されている。

また東条と仲の悪い酒井が、参謀本部付きになれたのも杉山の支援があったといえそうである。東条の私兵といわれた憲兵のマークがつく酒井を、陸軍中央に置いておくことは普通ありそうにない。

44年11月に松谷は陸相秘書官として陸軍中央に復帰する。戦争終結のための活動を再開し、海軍の高木惣吉、外務省の加瀬俊一、宮中の松平康昌といった諸勢力中の早期講和派と連絡を取り合った。そして陸軍が外部からどう思われいるのか、あるいは陸軍の情勢を伝えるなどして、陸軍外の情報把握に努めた。

ただしこの時点で松谷は、なおソ連の仲介による戦争終結を模索していた。当時の陸軍上層部は、ソ連が日本を裏切り、中立条約を破棄して満州に攻め込んでくる可能性は頭にあったものの、対英米講和の仲介になってくれる有力国は、やはり中立条約を締結していたソ連以外考え付かなかったのである。

サイパン戦の敗北により参謀本部では44年7月の『陸海軍爾後ノ作戦指導大綱』の中で、捷号作戦が決定された。この時期になって陸軍主戦派は太平洋方面への展開を中軸とした戦争計画を策定したことになる。また同時に戦争計画の再検討も行われ、多大な損害を被りつつあったインパール作戦は中止が決定されたが、大陸打通作戦の取り扱いが大きな争点となった。

サイパンが陥落したことにより日本本土はB29の爆撃圏内に入ったことにより、大陸打通作戦の戦略的意義は大きく後退したが、服部は継続を主張し、実際にも続けられた。その結果、在中国アメリカ空軍基地の生活という目的は達成されたが、対米戦準備の遅滞を招き、精鋭とされた支那派遣軍の戦力をも弱体化させてしまった。

またこの時期になってもなおドイツが戦局を挽回できると期待している軍人は多かった。しかし44年冬に行われたドイツ軍によるアルデンヌにおける大攻勢、バルジの戦いは失敗し、戦争終結が半年は早まったとされている。

45年2月にはヤルタ会談が行われ、ソ連とアメリカはドイツ降伏後、三ヶ月を準備期間として対日参戦をおこなう密約を結んだ。

主戦派はドイツの敗北が回避できないと認識すると、本土決戦構想に一縷の望みをつなぎ、勢力の保持を図ることになった。陸軍中央は、南海の島々で敗北していても、大兵力を縦横に動かせる日本本土ならアメリカ軍に勝利できると信じていた。

しかし本土の展開した部隊は、動員兵力に伴う質の低下、支給食料の減量に基づく空腹などにより軍規の乱れを招き、我儘放題な行為は国民の強い反感を買うに至っていた。

そして45年2月に服部は支那派遣軍連隊長に転任した。そして服部という作戦課の中核がいなくなり、主戦派の牙城も陸軍省軍務局の若手中堅課員に移った。陸軍省軍務局に移った理由は、本土決戦準備の実体が、陸軍省所管事項に属するものが多かったためである。

陸軍省軍務局は、編制・装備・予算を単とする軍事課と、国防に関する政策を担当する軍務課からなっていた。軍事課は慣例として幼年学校出で陸大優等組が採用され、作戦課と並ぶエリートが終結する課だった。また軍務局に再編された主戦派の何人かは開戦時の作戦課課員で服部の部下だったことは注目に値する。

衰えたとはいえ、主戦派の影響力はなお大きく、大軍を擁する陸軍兵力の主導権を主戦派に掌握されないことが、円滑に終戦を向ける決め手であった。

**Goldman Sachs、トレードの不振

債券、為替、コモディティのトレードの第三四半期は-44%の落ち込みを示し、収益は前年の84億ドルから67億ドルとなった。同じようにCitiは-26%、BOAは-20%、JPMは-8%の落ち込みとなった。Goldmanは他の投資銀行に比べ機関投資家の扱いが多く、そして彼らは不確実な投資環境下では活発に動かない、ということが足を引っ張った格好になる。収益に対する賃金比率も43%から35%に落ちた。しかしこれによって利益を調整するのはいつものパターンである。

**増加するヨーロッパにおける市場外取引

ヨーロッパにおける過去6ヶ月の株式売買のうち市場外取引が45%増加している。第二第三四半期のヨーロッパ全体の株式売買額は4.8兆ユーロだったが、市場外取引は同じ期間に1430億ユーロから2070億ユーロへと増加している。機関投資家は自らの大きな取引が市場価格に影響を与えないように市場外で取引するか、あるいはコンピュータを利用し小さいサイズの取引で対処する。このいわゆるdark poolに対し、規制当局は透明性と値付けの観点から懸念を示している。

**日本のヤクザの資金逼迫に備える

ヤクザはみずほ銀行からの融資を受けていたが、みずほはそれをオリコにまわし、またそのローンも踏み倒されていた。銀行協会は警察と組み情報を共有し、ヤクザが200に渡る銀行から融資を受けないように対策を取っていくとした。