2013年10月23日水曜日

主戦か講和か(8) 対ソ終戦工作 ポツダム宣言 聖断


44年6月22日、早期講和派が43年から用意していたソ連仲介による終戦工作は、異例ともいうべき天皇召集による御前会議を経て国策として決定された。陸軍首脳から主だった反対はなかった。

そして近衛が特使として派遣される案が浮上し、近衛は酒井に和平交渉の要綱を作らせた。内容は、早期の戦争終結を図ること、国体護持を終戦条件として絶対視する事、ソ連仲介の和平工作が失敗した場合は直接英米と和平交渉を行うことの3つの方針を中心として構成されていた。

陸海軍の随員では、向こうでは近衛を強く支援し、帰ってからは陸海軍を抑え得る実力を持つものとして、海軍では高木少将、藤井大佐。陸軍では松谷大佐か佐藤戦備課長の名があげられ、期待されていることが解る。

また細川のような民間人が軍施設の中に簡単に入れたことは興味深い。これは高松宮の力によるところが大きいだろう。このように天皇の代理ともいえる皇族を味方につけることも、終戦工作成功のための重要な鍵であったことが解る。43年から高松宮は早期講和派の頂点に立ち、松谷から報告を受ける立場であった。

このように日本側の対ソ交渉計画は着実に進められていたが、当のソ連はヤルタ会談での密約に従って対日参戦をもくろんでいたから、交渉には消極的であった。マリクは時間なし、病気、本国からの返答無し応え、交渉は進まなかった。

梅津参謀総長は就任当時から、表向きは主戦派に味方し戦争継続論を唱えていたが、水面下では早期講和派の松谷を復活させるなどの人事を容認する事で早期の戦争終結を路線にも期待をかけていた。その切り札が陸軍の人事権の掌握であった。これは阿南が陸軍大臣となった後も変わらなかった。

梅津はそうして東条が構築した人事を覆していった。その方法は急激に東条人事を覆すことはせずに、東条の納豆といわれた佐藤賢了をはじめとする陸軍省系の課長クラス以上を支那派遣軍や兵器行政本部へ移し、最終的にはそのほとんどが中央から追放されていった。

開戦を主導した参謀本部作戦課の参謀も。梅津就任後、井本、高瀬、瀬島、辻、櫛田をはじめ服部、真田といったクラスも参謀本部を追われている。真田・服部が中央から追われたということは、主戦派の結束力が弱体化したことを意味する。

7月26日にポツダム宣言が発表された。日本側はこれを黙殺、連合国側は拒否として受け取り、8月6日に広島、8月9日に長崎に原子爆弾が投下された。

国家指導者層ではポツダム宣言受諾をめぐって激しい議論が行われ、梅津・阿南は猛反発したといわれている。しかしそれは陸軍内の主戦派となった軍務局の中堅若手将校の抗戦熱が強かったため、彼らの暴発を恐れたからとの指摘もある。

例えば8月12日、軍務局の中堅課員達は阿南に対し、ポツダム宣言を受諾すれば国体護持は望めず、また軍も収拾できなくなるから、その受諾を阻止すべきだと激しく詰め寄り、もし阻止できないようなら陸相は切腹すべきであるとまで言い張り、阿南を苦境に追い込んだ。ちなみにこう迫ったのは竹下正彦中佐であり、その姉は阿南の妻であったから、他の将校よりも阿南に発言権があったのだろう。

これに対し阿南は、自分のような年輩になると、腹を切ることは左程難しくないと述べている。

この騒動の原因は連合国側に国体護持についての言及が含まれていないことであった。そして阿南は早期の戦争終結を期待しながらも、主戦派の若手将校にあおられ、自らどのような行動をとればいいか困惑していたことが伺える。

松谷も陸軍首脳が戦争終結に積極的に出られなかった理由について、中央部の少壮青年将校の戦意はますます激烈となり、軍首脳部としては抑えようがない雰囲気であったとしている。

梅津・阿南といった中間派は早期講和論に傾斜しながらも、主戦派の実態がつかみきれなかったので、曖昧な行動や言動をとったものと思われる。

8月9日、14日の2度の聖断によって戦争終結が決定されたが、陸軍内では開戦時の作戦課から鞍替えした将校が複数集まる陸軍省軍務局の中堅若手将校を中心に、その時の作戦課員も加わったクーデターが計画された。彼らは、国体護持の確約を連合軍から得られるまでは戦争継続を主張した。

計画の詳細は、使用兵力として東部軍と近衛師団を動員し、天皇と和平派の鈴木貫太郎首相、木戸幸一内大臣、米内光政海軍大臣などを隔離しようとするもので、実施には陸軍大臣、参謀総長、東部軍司令官、近衛師団長の全員の一致を条件としたので阿南にクーデターの実施をせまった。

しかし人事異動によって多くが中央を去り、服部などの主軸を欠いた主戦派は、陸軍首脳を説得する材料にかけていた。また天皇による聖断は、天皇による陸軍の切捨てを意味しており、天皇が本土決戦に反対し終戦を決意した以上、情勢は既に決まっていた。

主戦派におされた阿南からの打診を受けた梅津は、クーデター計画に対して、全面的に同意を表せずとか、かかる行動は断じて適当ではないと、計画に同意しなかった。

また参謀次長以下の上層部の態度は逐次静観的になっていた。ごく一部の主戦派の将校を除いて、陸軍内は比較的落ち着いた様子であったようである。

聖断に従う誓約があっても、戦争終結反対のクーデター騒ぎがあったので、吉田茂、重光葵、迫水久常など戦後政治を担った保守政党の政治家たちにより、陸軍が最後まで徹底抗戦を主張し続けた事が大きく強調された。しかし実際には、それは過大評価であり、小競り合いに過ぎなかったといえる。

主戦派をなだめながら統制を維持しつつ、戦争終結へ移行させることがいかに陸軍にとっての難題であったかがわかる。

泣くまで待つという梅津流のやり方は、陸軍内のコンセンサスを得るために貴重な時間を費やし、戦死者や民間人の犠牲者、被災者を増やしたので評価の分かれるところである。

しかしこうしなければ、本土決戦が遂行され、さらに犠牲者が膨らんでいたことも推測できる。最大の問題はやはり梅津のようのなり方でなければ早期戦争終結の決断をつけられなかった陸軍組織の体質にあるのだろう。

阿南だけでなく、杉山9月に杯って自決をしているが、松谷はその葬儀の際、参列する軍人の人々には、いかにも卑劣な人間、裏切り者とみられ、だれも話しかける者はいなかったと記している。

松谷は憲兵から殺害されるかもしれないと注意を受けている。講和に持ち込んだ功労者の一人でありながら、死に直面するという苦しい立場に陥っていた。

服部は、敗戦時、支那派遣軍の連隊長として中国の湖南省にいたが、10月1日に武装解除、翌年の5月に上海にたどり着き、6月に帰国している。そしてほどなく復員業務を担当していた高山を訪ねた。高山はその時の様子を次のように記している。

開戦直前から2回にわたり大本営の作戦課長として活躍した服部が、国敗れて山河残る故国の地に帰り、完全に解体霧消した明治以来の伝統に輝く国軍の廃墟を窓越しに見て涙している姿を、筆者は永遠に忘れることはできない。涙ながらに服部は生きることを選んだ。

晴気誠は45年8月17日に自決した。その遺書には、サイパンにて散るべかりし命を、今日まで永らえて来た予の心中を察せられよ、とあった。晴気はサイパン戦敗戦のことが心のうちにあり、その責任をとって自決した。

**株への回帰

米国の政府封鎖も終わったことにより、EUでのIPO市場に活況が戻るようだ。プライベートエクイティが上場させようとしている企業は、主に金融危機前に取得したものであるという。米国の機関投資家は残高を歴史的な水準に回復させる為には、EUに1500億ドルを投資しなければならない。今年のEUのIPOは200億ドルとなっている。

receptive 受け入れようとする

**McDonald's、世界経済を懸念

McDonald'sの第三四半期は4.6%の増益となったが、第四四半期の厳しいマクロ経済と激しい競争は変わらないだろうとしている。利益はロシアやフランスを含む堅調なEU市場と米国によるものである。しかし米国ではfast-casualレストランとの競争や、肥満の原因とされることに対する対策などに追われている。

**利上げと高齢者

高齢者は債券を多く抱えているが、利上げが債券価格にどのように影響するかについては知らない人も多い。UKの10年債の利率が1%あがれば債券価格は16%下落する。今年の債券は株に比べて-2%のパフォーマンスで、債券から株への流れが起こるとする向きもいるが、高齢者は定期的な収入を重視するという構造的な問題があると見る向きもいる

日経平均終値:14713(+19)
東証一部売買代金:1兆4826億
マザーズ売買代金:2250億
最高値銘柄:明治、ABC 、参天、エナリス
最高値銘柄数:17
最低値銘柄数:2
売買代金上位:熊谷組、大豊建設、三住建設、アドウェイズ

S&P終値:1748(-1)
S&P売買高:556m
最高値銘柄:NFLX,DAL,KOG,CMCSA,DIS
最高値銘柄数:312
最低値銘柄数:7
売買代金上位:EMC,COH,NFLX,FB,TSLA

バルチックドライ指数:
フィラデルフィア半導体指数: