2013/11/26

幸福論(3) アラン もしぼくが、たまたま道徳論を書かねばならなくなったとしたら、ぼくが書くべき第一のものは上機嫌についてであろう


第一の規則は、自分の不幸は、現在のものも過去のものも、絶対他人に言わないことである。

ぼく自身よく経験したことだが、自分が自分にうんざりしている人、そんなひとを楽しませることはけっしてできない。

幸福になることはまた、他人に対する義務でもあるのだ。人から愛されるのは幸福な人間だけである。



アランを読んでいてなるほどなと思ったのは、気分が移るということ。喫茶店でもよく愚痴をこぼしあっている人達を良くみかけるが、こちらも気分が悪くなってくる。その逆もしかり。楽しそうなものをみていると楽しい気分になる。

それをここでは不幸は言わない、幸福は義務だとする。気分は移るということを前提にすれば、独力で幸福になるものは、他人にも幸福を与えることになる。簡単な方程式だけど美しい。


彼らの間には少なくとも、次のような共通理解があった。相違は美しいものだということ、また価値の秩序が設けられるのは、バラと馬との間ではなく、一本のバラと美しいバラ、一頭の馬と美しい馬との間であること。

同時にまた、自分が相手にあたえている忠告は、相手にとってはゼロにひとしいとはっきり言わずも心得ている。

そして相手は返事のなかで、自分独自の道を求めようと腹を決め、忠告者にたいしてもまた忠告をきっぱりと送り返しえている。

共通の尺度を設定というか共有していないと、物事は話せない。そこにも十分相違はあるし、美しい。しかしその共通の基盤がなければそれはただの無秩序。


この偶然の勝負事には魂の高貴な部分を占めている力があるが、人はあまり知らない。それは事物の本性に対する挑戦のようなものだ

賭け事においては、いっさいが厳密な意味で同じなのである。だから選択しなければならない

こういう抽象的なリスクは、省察に対する挑発のようなものである。一か八かやってみなければならない。

勝負はすぐに答えを出す。われわれの思考を毒するあの悔恨など抱いていられない。悔恨など抱いていられないのは、その理由がないからだ。

アランも賭け事をしていた人なんですよね。ここが面白い。ローマ皇帝であったマルクス・アウレリウスなども含めて、なにかを現実で選択していくことを余儀なくされている人はこういう考えになっていくのかもしれません。


考えるのは楽しいことである。だが、考える楽しみは決断する術によって支払われる必要がある。

考えるのは本当に楽しい。すべての可能性を保持し続けられるから。でも時間も我々も有限なのでどこかで、その中のどれかを選ぶ必要がある。そこは考えるだけの楽しさとは違った領域。


・以下抜粋

よし、決まった。すべてをぶち壊してやる。ところが、思惟のおかげですぐに妥協策が講じられる

ほんとうの苦痛が訪れたら、その時自分のなすべきことはただ一つしかない。人間らしく振舞い、強く生きること。

死者たちのことを、できるかぎり友情とよろこびをもって語ること

人生の小さいな不幸について、それを吹聴したり、見せびらかしたり、誇張したりしないこと

他人に対して、また自分に対しても親切であること

他人が生きるのを支えてあげること、自分が生きて行くのも支えてあげること

親切とはよろこびにほかならない。愛とはよろこびにほかならない

すべてはほどんど、いかに読むかを知るにある

そのよろこびを見たぼくが、今度はまたよろこびを感じるのである。このようにして、お互いに与えたよろこびが自分に返ってくるのである

注意すべきは、よろこんでいる人もひとりでいたら、やがて自分のよろこびを忘れてしまうことだ

ひとりでいるかぎり、人は自分がほんとうに自分となるわけにはいかない

モラリストの馬鹿者たちは、愛する事は自分を忘れることだと言っている。あまりにも単純な見解

自分自身から蝉脱するほど、人はますます自分自身となるのだ

君の薪を君の穴ぐらの中で朽ちてゆくままにしてはならぬ

デカルトは、決断拒否はあやまちの中で最大のものであると言っている

人は偶然にすべてを賭ける勝負事が気に入っている。思い切って決断することができるからだ

どんな行動のなかにも賭けの要素がある。なぜなら思惟が問題の詮索を窮める前に、思考をやめざるをえないからだ。

自分一人で力を発揮し幸福になるものは、したがって、他の人たちによってさらに幸福となり力を発揮するだろう。

恐怖において最悪なのは、退屈さの場合も同じだが、自分はもうそこから逃れられないものと自分に断を下してしまうのである。

決断拒否は果てしなく続く。

彼は決心した。彼は解決した。これは美しい言葉である。一つの言葉の中に二つの意味(決断と可決)がある。

君が上機嫌であることをお祈りする。これこそ交換し合うものである。これこそみんなの心を豊かにする、まず贈る人の心を豊かにするほんとうの礼儀作法である。これこそ贈り合うことによって増える行く宝である。

この世のどんなものに対しても非難の顔をひけらかしている人たちがいる。そういう場合には、できるだけ逃げるほうがいい。なぜなら人間は人間の真似をしてしまうから。

粗暴さや荒ぶる力を感じさせるものはすべて無作法である。そういう兆しだけで十分なのだ。

ほんとうの力は礼儀作法に反するものではない。それは礼儀作法を引き立てるものである。

茶碗一つ手にもつその持ち方に、いかにその人の気品が出るものかわかるのである。

最初の衝動にかられている人間、すなわち思い浮かんだことを何でも言ってしまう人間、最初の感情に夢中になる人間、自分が何を経験しているのか気付かないうちから、遠慮会釈なく驚きや嫌悪感や楽しさを示してしまう人間、そういう人間は無作法な人間である。こういう人間はいつも言い訳を言っていなければならないであろう。

礼儀作法をわきまえた人間とは、害が救いがたいようにならないように、気まずさを感じ、品よく話を逸らす人間のことである。

礼儀作法とは、身についた物腰であり、ゆとりである。

礼儀作法はしたがって、フェンシングを学ぶように、学ばれるものである。

ほんとうの生き方の中に、ぼくは楽しませるべしという規則を入れたい。

ほんとうのことを語るにしても声は張り上げない方がおそらくいいだろう。そして真実のなかでも良いことを選んで言ってやる方がいいだろう。

若者に対しては、推測にすぎないこきは、すべてを最もよい方にとってあげたまえ。

批判することは何の役にも立たないのだ。

ぼくの考えている礼儀作法とはそういうものなのだ。つまり荒ぶる情念をなだめる体操なのだ。

礼儀作法をわきまえるというのは、すべての身ぶりを通して、すべての言葉をつくして、いらいらしないように。われわれに与えられた人生のこの瞬間を台無しにしないように、と示すこと、言うことである。

ほんとうの礼儀作法とは、むしろよろこびが伝って行って、すべての摩擦がやわらぐところにあるのだ。

体操と音楽は、名医プラトンの用いる二大療法であった。

死を神の恩寵として待ちうけていた昔の隠者たちが、百歳まで生きたことは、ぼくにとって驚きでもなんでもない。長寿の原因はおそらく、彼らが死ぬ恐怖を感じなくなったからであろう。

本を読む楽しみはあらかじめ推し量ることがまったくできない。それは経験豊かな読書家でさえも驚くほどだ。

仕事を規則正しくすること、そして困難を、さらなる困難をも乗り越えること、これがおそらく幸福に至る正道である。

自分からやる、根気良く続ける、困難を乗り越えるという同じ符牒をやはり持ちながらも自分一個の域を出ない幸福もある。守銭奴や収集家だ。

自由な行動だから幸福なのである。自分で規則をつくりそれに従っているから幸福なのである。

一言でいえば、サッカーであれ学問研究であれ、規律を容認しそれに従うから幸福なのだ。

幸福とは、報酬など全然求めていなかった者のところに突然やってくる報酬である。

人間をあるがままい見ることはたいしたことではない。そのレヴェルにはいつも達していなければならない。しかし、彼がほんとうに彼であって欲しいと思うこと、これこそ真実の愛なのである。

人に考えを強いるやり方、暴君や臆病な者はいつもそのやり方をするが、それはつねに御しがたい愚かさであり、狂気の温床である。

人に考えを強いるな、自由にさせてやりたまえ、怖がるのはやめたまえ。自由な人間は柔和な者で、武器など持たない。

古代の賢人は難破から救われてすっぱだかで陸に上がると、おれは全財産を身に付けているのだ、と言った。

自分一個の、自己の魂に親密な幸福は、けっして徳と対立するものではなく、むしろ、力を意味するあの美しい徳ということばが示しているように、そのような幸福自身が徳であると考えている。

エゴイストは憂鬱な人間なのだ。なぜなら、彼は幸福を待っているからだ。

上機嫌は、何かをもらうというのではなく、むしろ人に与えている。

われわれが自分を愛する人達のためになすことができる最善のことは、自分が幸福になることである。このことに人はまだあまり気付いていない。

礼儀作法が教えているのはそのことである。礼儀作法は外見の幸福である。外部から内部へのリアクションによってすぐに強く感じられる幸福である。これは絶えず生きている法則だが、絶えず忘れられている。

飾りというものはすべて、よろこびなのだ。われわれ人間が求め合っているのは、ただ自分自身にとって最大のよろこびをもたらすものだけである。

だから礼儀作法というのは処世術というすてきな名前をいただいたのである。

生きている人々をさがしている。つまりぼくが言うのは、自分にこれでよし、と言っている人たち、自分のよろこびを顔に出している人たちの事だ。

子供は遊びに全てを打ち込んでいる。だれかが遊んでくれるのを待ってはいない。

彼は決心した。彼は解決した。これは美しい言葉である。一つの言葉の中に二つの意味(決断と可決)がある

力いっぱい戦ったあとでなければ負けたと言うな。これはおそらく至上命題である。

言わばみんなの人生を浄化してくれた人達には感謝の念とオリンピックのメダルとをささげなければならない。

悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである。

気分にまかせて生きている人はみんな、悲しみにとらわれる。否、それだけではすまない。やがていらだち、怒り出す。

気分というのは、正確に言えば、いつも悪いものなのだ。だから幸福とはすべて、意志と自己克服とによるものである。

いずれの場合も理屈は奴隷みたいなものだ。命令にしたがって動くだけだ。気分には驚くべき思考システムがあって、それが狂人にあっては拡大されて見られる。

憂鬱な思考はすべて、自分をだます魂胆だと思って差し支えない。

われわれは何もしないでいると、すぐに自らと不幸を作り出してしまうものだから。退屈さがそれをあかししている。

中途半端に考えようとは絶対しないことだ。思考に没頭するか、それとも全然考えないか、どちらかである。

**歴史的な核協議

イランは核施設を抑制する代わりに、経済制裁を緩めることに同意した。イランはこの外交によって孤立から抜け出すことができる。一方西洋諸国は外交と制裁戦略の勝利だとしている。イランはこの8年間で高い失業率とインフレに悩まされていた。

**ファミリーオフィス

資産の保全やその世代継承といったサービスは未だHSBCが世界一であるが、小さいファミリーオフィスの成長も著しい。小さいファミリーオフィスは顧客とより密接に接することができるし、ニッチなマーケットやフレキシブルな投資を可能とする。またヘッジファンドは1億50000ドル以上を運用する際はSECに登録しなくてはならいので、それを免除されているシングルファミリーオフィスの設立も流行っている。

**ナイジェリア株式市場の改革

腐敗と汚職で覆われていたナイジェリアの株式市場だが、改革が進んでいる。未だ外国人が半数を占めるが2011年には国内投資家は30%の比率だった。時価総額はGDPの25%の700億ドルで、ヨハネスブルグの9000億ドルには遠く及ばない。将来的には1兆ドルのマーケットを目指している。