読書会の課題本。本作に向けて長編を何作か読んできたので、自然と力が入った。いくつか気付いたことや考えさせられた事あったのでつらつら書いてみたいと思う。
意外に情緒的に読んでいる
死者への弔いや生などをテーマとして読んでいくのも確かに楽しいのだが、それよりは登場人物達への単純な共感がより大きい。
読書会や三次会(男子会)では若いというのが理由にされていたが、個人的にはあまり年齢的ではない部分、逆にいえば大人になってから読んでこそ響く部分ではないかと思うのだどうであろう。冒頭の直子の部分を引用してみる。
どうしてそんなに固く物事を考えるんだよ?ねえ、もっと肩の力を抜きなよ。肩に力が入っているから、そんな風に構えて物事を見ちゃうんだ。肩の力を抜けばもっと体が軽くなるよ。
「どうしてよ?」と直子はじっと足元の地面を見つめながら言った。
肩の力を抜けば体が軽くなることくらい私にもわかっているわよ。そんなこと言ってもらったって何の役にも立たないのよ。ねえ、いい?もし私が今肩の力を抜いたら、私バラバラになっちゃうのよ。私は昔からこういう風ににしてしか生きてこなかったし、今でもそういう風にしてしか生きていけないのよ。一度力を抜いたらもうもとには戻れないのよ。私はバラバラになって-どこかに吹きとばされてしまうのよ。どうしてそれがわからないの?それがわからないで、どうして私の面倒をみるなんて言うことができるの?」
僕は黙っていた。
私はあなたが考えているよりずっと深く混乱しているのよ、暗くて、冷たくて、混乱していて・・・・・・ねえ、どうしてあなたあのとき私と寝たりしたのよ?どうして私を放っておいてくれなかったのよ?」
この肩が抜けないという部分に共感をしてしまうのではないだろうか。解っていても崩せない部分。恐らくこの部分を若いと言い、自らを成熟したという部分に置いているのだろうけど、それにはどうもしっくりこない。そんなに簡単に崩せないものだから大変なのにと思ってしまう。
これを作中で歪んでいない人物であると描かれているワタナベ君が割りと軽く言ってしまう。この淋しさといったらないのではないだろうか。
直子のようにきちんとしている人間に対しては、こういう言葉を吐くのは失礼なんですよね。一般にこういう言葉は優しさと捉えられていますし、言われたい言葉なのかもしれませんが、ある種の人達には言ってはいけない侮蔑の言葉なんですよね。
この後に、私のことを忘れないで、と続きますがその言葉を託す相手が真には解りあえている相手ではないという淋しさはぐっときます。
この肩の力を抜けない部分はハツミさんにも被る部分で
それは充たされることのなかった、そしてこれからも永遠に充たされることのないであろう少年期の憧憬のようなものであったのだ。僕はそのような焼けつかんばかりの無垢な憧れをずっと昔、どこかに置き忘れてきてしまって、そんなものがかつて自分の中に存在したことすら長いあいだ思いださずにいたのだ。ハツミさんが揺り動かしたのは僕の中に長いあいだ眠っていた<僕自身の一部>であったのだ。そしてそれに気づいたとき、僕は殆ど泣き出してしまいそうな哀しみを覚えた。彼女は本当に本当に特別な女性だったのだ。誰かがなんとしてでも彼女を救うべきだったのだ。
本当に、という言葉を重ねてますね。
そして私は彼女に対して公正に振舞うことができたのだろうか?いや、違うな、と私は思った。いったい誰が公正さなんて求めているというのだ?誰も公正さなんて求めてはいない。そんなものを求めているのは私くらいもなものだ。しかし公正さを失った人生にどれだけの意味があるだろう。
公正さというのは極めて限定された世界でしか通用しない概念だのひとつだ。しかしその概念はすべての位相に及ぶ。かたつむりから金物店のカウンターから結婚生活まで、それは及ぶのだ。誰もそんなものを求めていないにせよ、私にはそれ以外に与えることのできるものは何もないのだ。そういう意味では公正さは愛情に似ている。与えようとするものが求められているものと合致しないのだ。だからこそいろんなものが私の前を、あるいは私の中を通り過ぎていってしまったのだ。
おそらく私は自分の人生を悔やむべきなのだろう。それも公正さのひとつの形なのだ。しかし私には何を悔やむこともできなかった。たとえ全てが風のように渡しをあとに残して吹きすぎていってしまったにせよ、それはまた私自身の望んだことでもあるのだ。そして私には頭の中に浮かんだ白いちりしか残らなかったのだ。
おそらく限定された人生には限定された祝福が与えられるのだ。
そういう意味で考えると、物語を語るというのは状況や関係性を一つ一つ構築していって、その質量と意味を伝える機能があるのかもしれません。
それからたぶん中二を過ぎた中二病は嗤う対象にしちゃいけないんだなと。それは選ぼうと思ってもなかなか選べない、維持し続けるのが難しい、自分の評価を軸とした一つのなかなか大変な一つの生き方なんだと書きながら感じました。
三人組をなぜ不快に思ったのか
ゲストで来ていた3人が不快だったなぁと思って、なぜそれを感じるのかジョギング中に考えていたら、それは他人の感情に寄り添えないことなんだなという結論に。
彼女達の基本的な主張は女性の描写が男にとって都合が良すぎるというもの。あるいは、ハツミが面倒くさいとか男性がそれを好きとか、セックスはもっとどうとかこうとかいう話。
それは聞いていて確かに一理あるなと思っていたので、これは不快の原因ではなかった。
そこでさらに考えてみたところ、自分の観点からは離れらないことなんだなと。もちろん我々は完全な存在ではないので自分の観点からは完全には離れられないが、相手がどうしてそのようにしたのか、という意図については頭を働かせることができる。少なくとも。たぶん。めいびー。そうであって欲しい。
都合が良いとかそういうのは一つ意見としてあっても良いと思う。しかし同様に村上春樹が書いた意図(小難しい文学批評論は横において置く)や、小説の中でどうして登場人物達が苦悩するのかなど、他の観点を持という意志(あるいは能力?)に欠けていたのが、不快だったんだなと。いってみれば厚かましい。
これは結構な発見で、自分が登場人物に共感してしまうのもひとつにはこれがあるんだなと。ワタナベ君や永沢さんの行動の結果はともかく、その置かれた状況での意図や感情は、トレースすればそれもやむなしという、一理ある、自分もそうしかもしれない、など感じてしまう。
価値観が多様という言葉で使われる実際のところの積極的な無関心さも、この寄り添おうという、どうしてそうなるのか、という部分が欠けている点では同じだろう。
それはともかくもう一歩進めて、じゃあなんでトレースをするのかというと考えみるとほとんど自動的で意識はしないけど、好奇心なんだと。空白の部分があるとどうしてどうして、と埋めにかかる。今回のノルウェイの森はその点だいぶ饒舌なので、そういった部分は少なかったが、生と死というテーマにおいてはその部分が発動していると思う。
話を三人組に戻すと、一つ意見があるのは良い。むしろ積極的に評価する部分。しかし他の観点を話の中に導入できなかった点が微妙だったんだなと。
もちろん公平さの観点から言えば、実際に話した訳でもないし、彼女達は自分たちの考えを開陳するのが役目だっただろうし、実際どのようなものを書いているのかは知らないので、断定はできない。したがって表層に出てきたものから判断して、という但し書き付きで若干不快だったというところが正しいところだろう。
まあ公平さなんて書いていて思うけど、面倒くさい話ですね。個人的には大事な部分だと思うけど。
まとめ
直子の肩の力を抜けない感、永沢さんの失う前には解らなかった死角、ハツミさんの永沢さんが好きという感覚、ミドリのわがままをぶつける理由と淋しさ、ワタナベ君の損なった感じ、そういうものに単純に共感しているだというのが個人的な発見だった。割と情緒で読んでるのねという。
それから村上春樹に関して言えば、エッセイとかはなにも読んでないけど、この損なった感覚(ちなみにミドリのくだりは紙一重だっと思う)が個人的にやっぱりあって、それに対する贖罪や鎮魂歌なのかなと。
上巻の最初の直子、下巻の最後のレイコさん。ともに『忘れないで』というのはもちろんテーマ的な話もあるんだろうけど、なんとなく自分に向けて言わせている個人的な言葉だと感じてしまっているなと。
読書会という観点でいうと、8人のうち初参加が4人、2回目が2人、5回以上が1人という具合だったので緊張したがまったくの杞憂だった。時間が短いというのもあって、さっさと核心に入っていってのが功を奏したのかもしれません。ファシリ技術的にもヒントを得た会でもありました。
見落としていたのは、直子は20歳になりたくなかったこと。一人はそれを通過儀礼の話としてとらえていてなかなか面白かった。それと、上巻の最初の頁に『多くの祭りのために』と書いてあったこと。色々と節穴です。複数で語るとこういった見落としを拾えるのがやはり楽しいところです。
最後はどうでもいいけど、レイコがピアノにかかったのはフォーカルジストニアではないかなと勝手に思っている。
**中国の資金圧迫続く 中央銀行の資金中にも関わらず
**チューリングを赦免 ホモセクシャリティ有罪判決に関して
**世銀 スタッフ規則を厳格化
**中国でデートアプリが人気 最大手のMomoは3000万人を獲得
**英SFO Rolls-Royceを贈収賄疑惑で捜査開始
**ヒュンダイ 金融部門を売却 負債を圧縮
**アーモンドの需要が好調