2014/04/11

人生談義(上) エピクテトス


セネカ、マルクス・アウレリウスと並ぶ後期ストア派を代表するエピクテトスの言行がまとめられた本で最近岩波から復刊されていました。まことに嬉しい限り。

簡単に言えば、自分の自由にならない外のことには思い悩まずに、自分の心と理性を使いこなす事に専念しましょうということになります。

実践していくのは難しいかもしれませんが、それはエピクテトスも言っている通り練習して徐々にということころでしょう。

まとめようと思ったが抜粋しすぎてまとめられなかったので、長さで区切ってみました。長いです。

特に良かったところ

私は私自身から心の大きさと気高さを得ることができるのに、君から土地や金銭や或いは何か役をもらおうとするのだろうか。

クリューシッポスがただ自然本性の意志を解釈するだけで、彼自身がそれに従わないのであるならば、彼さえ正当に自慢できないはずだ。彼を解釈する者は、それにまさってどれほどの自慢ができるだろうか。

いや書物はストアの小理屈でいっぱいなのである。それでは、欠けているものは何なのか。それは使用する人だ。つまり行為で以って言葉を証拠立てる人なのだ。

外物は私の権内にないが、意志は私の権内にある。私は善や悪をどこに探そうか。それは私の内部である。

小人を支配しているのものは誠実ではない。それは不安定であり、気儘であって、その時々の違った心像に敗れるものだ。

短い

それを考えばならないのは、君であって、私ではない。

ところで何で君は私に大衆と同じようになれというか。

徳の仕事は何であろうか。それはゆとりを持つことである。

パンや酒を倉庫に蓄えて置くのと、食べることは別問題である。

善の本質は心像の使用にあって、悪の本質も同様だ。

君は何物であるか。第一に人間である。すなわち意志以上勝れたものを何も持たないものである。

哲学の始めは必要なものに関する自分の貧弱さと無能力を自覚することである。

そうすると誰が不敗なのか。それは意志外の何物にも左右されない人である。

理性を追っ払う心像から起こる嵐よりも、もっと大きいどのような嵐があるのだろうか。

すべての出来事は、もしそれが意志外のものであるならば、私対して何のかかわりあいもない。

真理をうけがい、虚偽を拒み、不明なものを差し控えるということは、正に分別知の本姓である。

少し長い

化石には二種類ある。一つは知性の化石であり、他は恥じらいの化石であって、人が頑固で明らかな事をうけがわない場合と、争いを止めない場合とがそれである。

概してすべての能力は、無教養な人々や力の弱い人々にとっては、彼らをして自惚れて尊大ならしめる危険がある。

彼はランプのために盗人となり、ランプのために不実な物となり、ランプのために畜生のようになったのである。それが彼には得であると思われたわけなのだ。

そこで君も、誰かの得心させて考えを変えさせることができぬ場合は、彼を子供だと思って彼と一緒に手をたたくがいい。だがもしそれを好まないならば、結局黙っていたまえ。

多くの人々は『一体私は何なのか、みじめな小さい人間だ』しかも『私の憐れむべき肉体』と彼らはいう。本当に憐れむべきである。

何か意志外のものを避けるならば、避けているにもかかわらず、いつかは何かに出会って不幸になるということを知っている。

ただひとつのものに携わることができるのに、かえって我々は多くのものに注意し、多くのもの、つまり肉体や、財産や、兄弟や、友人や、どれに縛られたがっているのである。

その性格に合ったものだけを、自分でじっくりとよく考えるように慣れている者は、そのように強いわけである。

君の持っている能力に対応する対象が、君に持ち来らされる。だが君は眼を開いてそして見ねばならないちょうどその時に、大抵そっぽを向いている。

彼はただ見事にうたいたいばかりではなく、拍手喝采もされたいからである。だがこれはもはや彼の権内にはないのだ。

賢い馬鹿を友人には持ちたくないものだ。これより扱いにくいものは何もない。『僕は決めてしまった』狂人どももその通りだ。

私の兄弟の生活はどうなんですか? それもまた彼自身の生き方に属するのであって、君の生き方に対しては、ちょうど土地や健康や名誉と同様に、外物に属するわけだ。

哲学する者の最初の仕事は何か。それは自惚れを棄てるということである。人が知っていると思っていることを、学び始めるということは不可能であるからだ。

『今日私は悲しまなかった。明日も悲しまないだろう。続いて二ヶ月も三ヶ月も。とにかく何か刺激するものが起こると私は用心した』君は立派になっていることを知るがいい。

本来上自由なるものは、自分自身によってはとにかく、他人によって混乱されたり、妨げられたりすることはできない。

理性は一体何のために自然から与えられたのだろうか。それは心像を使うべきように使うためである。

意志やすべての意志的活動は、われわれの権内にあるが、肉体、肉体の部分、財産、両親、兄弟、子供、また祖国、簡単にいえば社会的なものは我々の権内にない。

我々は自分で自分たちをおしあわせ、自分たちを窮屈にしているのだ。つまり我々の考えが我々を押しあわせ、窮屈にしているのだ。

人生の事柄においては、人は自分自身を吟味に提供もしないし、また我々は吟味する人を憎みもするのである。だがソクラテスは吟味経ない生は生きるなと言っていた。

長め

エピクテトスはソクラテスよりも優れてはいないだろう。だが劣ってはない。私にはそれで十分だ。要するに我々は他のどんなことにおいても、最高のものに達する望みがないからといって、心を使うことをやめはしないのである。

なぜ立腹するか。われわれから奪い去られる事物をわれわれが尊重するからである。だから君の着物は尊重せぬがいい。そうすれば君は泥棒に腹を立てないだろう。これらを君が尊重している限りは、彼らに対してよりはむしろ自分自身に対して腹を立てるがいい。

ねえ君、私はそういうことを求めているじゃなくて、君がどのように意欲したり、拒否したりしているか、どのように欲求したり、忌避しているか、どのように計画したり、意図したり、また準備したりしているか、つまり自然本性に合致しているか、していないかとうことを求めているんだ。というのもはもし合致しているならば、それをどうか見せてくれたまえ、そうすれば君に君が進歩していると私はいうだろうから。だがもし合致していなければ、去るがいい、そしてただその書物を解釈するだけでなく、自分でそのようなものを書くがいい。

むしろ我々の周囲のものは、それがあるよに、しかも本来あるようにあるのであるから、我々自身たちの心を出来事に適合させる。人々から逃げることができるだろうか。またどうしてそれができるのだろうか。いや彼らと交際する時、彼らを変化させることができるだろうか。また誰がそんな力を我々に与えてるのであろうか。

本当に教養ある人々にとって、最も美しく、最もふさわしくあるべきものは、平静であり、無畏であり、自由である。自由人たちのみが教養を受けることが許されると主張している大衆を信じるべきではなく、むしろ教養ある人々のみが自由である、と主張する哲学者たちの方を信ずるべきである。

『心像よ、ちょっと待ってくれたまえ。お前は何なのか。何についての心像なのかみせてくれたまえ。君を調べさせてくれたまえ』と言うがいい。何か他の美しく気高い方の心像をその代わりに入れて、そしてこの汚れた心像を投げ出すがいい。いまはただ屁理屈しか持たず、それ以上は何一つ持たないのだ。このような心像対して、自分自身を鍛える者こそ、本当の修行者なのだ。じっとしていたまえ、ねえ君、心像にさらわれぬがいい。

彼ら自身の利益をどこに置くか、外界に置くか、意志に置くか、どっちかということだけを吟味するがいい。もし彼らが外界に置くならば、彼らを誠実であるとか、危なげないとか、勇敢であるとか、自由であるとかいうべきでないと同様、友人ともいうべきではない。むしろ君に分別があるならば、彼らを人間とさえいうべきではない。

あなたはなにも言ってくれないのですか、などといわぬほうがいい。むしろ聴くことができる君自身を示したたまえ。そうすればいかに君はその話す人を動かすかわかるだろう。

**Nikon中国CCTVに攻撃される

3月15日消費者の日のターゲットとしてNikonが選ばれD600の質が悪く故障した部品の交換にも応じなかったとされ攻撃された。去年はAppleやVolkswagenが攻撃された。今回の理由は尖閣諸島をめぐって対日感情が悪化しているのが原因と見る向きもいる。

**バリュー投資の二つのスタイル

一つはBenjamin Grahamの手法でmargin of safetyを見るやりかた。もう一つはEugene FamaのPBRが相対的に安い銘柄は長い目でみれば利益になるというやり方だ。これとは別にグロース投資がある。Grahamの手法に敵う銘柄はいまのようなマーケットが好調な時は非常に少なく見つけるのが難しい。

**偵察衛星がマレーシア航空機探索に役に立たない理由

英の商業衛星がインド洋に向ったのを発見したが、これはたまたまルーティンに入っていたからだ。米の偵察衛星は主に北朝鮮、アフガニスタン、北パキスタンに使用されている。またアンダマン海の海上偵察機などにも使われている。中国側にも向けているが未だ本格的ではない。