2014年6月26日木曜日

フランス史10講(1) ロベスピエールのあたり


赤と黒は1830年代を描いた作品とのこと。ということでお勉強。

1830年はナポレオンが失脚しその反動の王政が復活したが、なかなか上手くやっていた。しかしルイ18世の次の王が反動色を強くしたので民衆が反乱し、冷遇を囲っていたオルレアン公を引っ張り出し七月王政になったというところ。

今回はまずはフランス革命のあたり。立憲君主派のフイヤン派、穏健共和派のジロンド派、急進的なジャコバン派というくくりだろうか。

ロベスピエールの属していたジャコバン派は数は少なかったが、民衆の支持を得ていたので権力を握ることができた。戦況が悪化していたので憲法の施行は停止し、全権力を革命政府に集中した。

赤と黒でいえばラ・モール侯爵の若い頃に当たり、亡命を余儀なくされた頃で、この経験が彼の人格を形成することになるか。スタンダールが執筆を開始したのは1816年で終えたのが1830年。

ちなみにレ・ミゼラブルのジャン・バルジャンが刑務所に入ったのが1796年で出所したのが1815年、コゼットを引き取ったのが1823年、コゼットを修道院から出すのが1829年、学生がバリケードを作ったのが1832年。

■1789年暮れの情勢

1789年7月にバスティーユ牢獄が襲撃され、この動きが全国に飛び火する。8月には人権宣言を採択。しかしこの時はまだ国王が主権者だったので、ルイ16世がこれの承認を拒否したが、結局10月に承認させられる。この時期の革命は、穏健なミラボー、ラファイエットなどの穏健な立憲君主制派によって指導されていた。この革命の勃発により、貴族や聖職者は国外へ亡命した。

王権と高等法院の抗争が続く理由は、課税の『平等』の名のもとに中間団体の『特権』を否定する王権と、政治的『自由』の名のもとに王権の『専制』を否定する貴族、という二つの改革の論理が両立不可能なことにある。

フランス革命当時の第一身分は聖職者で10万人。第二身分は貴族で40万人。第三身分は2500万人。

ヨーロッパ各地の革命に共通するのは、『特権的中間団体』の王権への抵抗、経済発展を背景にもつ『ブルジョワ層』の上昇、『民衆』の不満。

フランスに特有なのは、この三要因が強い緊張をはらむ三極構造を構成すること。特権貴族の抵抗が王制を機能麻痺させるまでに頑強なため、袋小路に入った政局を打開すべく理論的に先鋭化した変革主体が出現する。

彼らは徒手空拳なので、民兵を組織するが、その行使には民主運動の介入によってはじめて可能になる。しかし民主運動は変革主体を援護する別働隊ではなく、むしろ変革主体の秩序を脅かす自律的存在である。

変革主体は民衆運動の沸騰に支えられて、かろうじて中央・地方レベルの制度的な権力交代にたどり着いたが、民主運動に対する制御能力を欠如している。

他方で王制に抵抗した旧体制の支配層の大多数は、予想もしない情勢の急展開を前にして、国外勢力と連携をはかる反革命派に変容し始める。

変革主体は国民議会の多数派ではあるが、その基盤はきわめて弱く、不安定である。

■91年体制

91年憲法は選挙権を有産者に限る制限選挙制であり、また王権と妥協して議会の決定に対する暫定的な拒否権を王に認めた。

このリベラリズム路線は時間をかければ定着したかもしれない。しかし、急を要する財政問題解決のための教会・修道院の土地財産の国有化や、聖職者民事基本法、などの性急な措置が旧勢力を強めた。

■ジャコバン派、ジロンド派

元々はジャコバン・クラブという様々な思想を持つ人々が集まる政治クラブで、全国の支部を持ち革命を組織的に推進した。

ここから立憲君主派のフイヤン派、穏健共和派のジロンド派が離脱した。

ジロンド派は内外の反革命派の運動の根源を断とうと、92年に対オーストリア宣戦に世論を引っ張った。しかし戦争は長期化し、オーストリア・プロイセン軍がパリに迫った。軍事的危機の中でパリ民衆と地方義勇兵が武装蜂起し、外国と通じていると不信の目を向けられていたテュイルリ宮を攻撃した。王権は停止され、新憲法を作るための『国民公会』選挙となる。

ジロンド派の路線は、リベラリズムを放棄することなく民衆のショーヴィニズム(排外主義)に訴えるだけで反革命を根絶しようとした冒険主義であり破綻した。ここからフランス革命を特徴付けるジャコバン主義が生まれる。

■革命政府の樹立

普通選挙で選出された国民公会では、ジロンド派が右翼となり、残ったジャコバン派が左翼となり、高い議席に陣取るため『山岳派』と呼ばれた。山岳派は、民主運動と結合してでも革命の成果を守るとする路線を選択した議員である。

戦況悪化で革命の危機が強まった93年6月、ジロンド派首脳は院外のパリ民主運動とこれに呼応する山岳派によって国民公会から排除された。

国民公会は共和主義の『1793年憲法』を採択するが、平和到来まで憲法の施行を停止して公会に全権力を集中する『革命政府』体制をとることを宣言した。特に公会内の公安委員会の権限が大きくなった。これがいわゆる『テルール(恐怖政治)』と呼ばれる体制である。

■ロベスピエール

ロベスピエールは基本的にはリベラル路線。彼にとっては、民衆は依然として啓蒙されるべき存在であり、革命防衛という緊急要請に直面するいま、自然発生的で無秩序な街灯の民衆運動を『市民的公共圏』のなかに統合し、理性的存在として変革主体のコントロール下におかなければならない。

このためには、可能な限り貧困な民衆に所有を分配して『市民』化するとともに、他方では過大な所有を制限し、それとならんで、習俗の全面的な刷新によって『新しい人間』を創り出す必要があった。それが全生活を政治化する『テルール』であった。

『テルール』とは『徳と恐怖』を原理にもつ戦時非常体制であり、『徳』とは公共の善への献身、『恐怖』とはそれに反するものへの懲罰をさす。

『徳なくして恐怖は罪悪であり、恐怖なくしては徳は無力である』

こうして革命政府は、単に反革命勢力に対する戦いだけではなく、独走する民衆運動のコントロールをも意味した。

しかしこれは鉄のような革命独裁体制ではない。山岳派には全共和派大同団結のためジロンド派残党や中間議員との妥協を重視する右派(ダントン 寛容派)と民衆運動との結合を重視する左派があり、ロベスピエール派はごく少数にすぎない。

しかもこれをあわせても山岳派は公会内で半数に達せず、議員の半数は、民主運動を警戒しながら沈黙して時節到来を待つ中間消極派であった。

94年春、ロベルピエールはダントン派首脳と、民衆運動に影響力をもつエベール派との左右勢力を粛清した。

しかし夏に、革命政府の解消に傾く右派と、ロベルピエールの個人的独裁を嫌った左派の連合によって同志とともに議場で逮捕された。

■ロベスピエール以後

ロベスピエール派の失脚以後、革命政府は解消にむかう。革命政府が可能な条件は、山岳派が公会内では少数であるにもかかわらず、院外の民衆運動の圧力に支えられて議会を支配することにあった。だが山岳派は分裂し、公会内の受け皿を失った院外の民主運動は組織のない大衆運動を繰り返したのち沈滞した。

こうして三極構造は解消に向かい、95年秋、保守共和派による集団指導体制の総統政府へ移行し、リベラリズムへ復帰する。

■革命前との比較

領主制廃止や国有土地財産の払い下げの土地政策は、富裕者に有利な方式とはいえ、所有農民も増加させており、戦争にって『成りあがり』層も生んだ、

またブルジョワと民衆の中間に当たる商人や手工業親方の間からも、ローカル行政の経験をつんだ『プチ名望家』の広い層が形成された。出生・門閥から個人への『才能』本位への社会転換はかなり進展していた。

しかしこれらの社会層はまだヘゲモニーを形成するには至ってはいない。

**フランスでWikoが人気

中国資本で中国で製造されているスマートフォンのWikoがフランスでトップスリーのハンドセットとなっており、ポルトガルやイタリアでも人気がある。Wikoはフランスの8%を占め、ヨーロッパでは2桁の成長を続けている。Wikoは2011年にフランス人のLaurent Dahanによって企業された。

**中国投資が海外投資で失敗

世界で四番目に大きいソブリンウェルスファンドの中国投資が。2008年から2013年にかけて行った12カ国への投資が損失、あるいは損失になる見込みがあるという。原因は職務怠慢や不適切な情報開示であり、内部のマネジメントも上手くいっていなかったようだ。