2014年6月27日金曜日

フランス史10講(2) ナポレオンのあたり


今回はナポレオンのあたり。

基本的には、続く対外戦争から革命を守るために軍部を頼る → ナポレオンうっちゃる → 王政復活を防止するために世襲皇帝(ただし人民投票による) → ロシア遠征失敗 → 崩壊

このような具合だろうか。『赤と黒』『パルムの僧院』も共に主人公はナポレオンを崇拝しているし、スタンダール自身もナポレオン政権下で出世していったようなのでやはり影響は大きいのだろう。

しかし純軍事的にみても文字通りヨーロッパを席捲するとか良くできたものだなと。それだけ革命が持っていてエネルギーが大きかったのかもしれない。

余談だけどナポレオンが最後に流されたセントヘレナ島が孤島すぎて涙をそそる。地図で左下のあたり。エルバ島はジェノバのちょい先なので大違い。



■統領政府

95年秋に保守共和派による総裁政府へ移行したが、戦争は依然と続き、革命はまたもや危機に陥った。そこで一部の総裁政府派議員が政局安定のため、急速に独自勢力として台頭してきた軍部に頼ったのが、99年のブリュメール18日のクーデターである。

クーデターの後、統領政府が成立する。3人の統領が置かれ、普通選挙制が復活した点では共和体制の連続だが、選挙は名士リストを作るだけで、その中から政府が議員を選んだ。しかもその立法機関の権限は極端に弱い。第一統領には、シエイエスが道具として使用したつもりのナポレオンがその裏をついて就任した。

ナポレオンはコルシカ島の旧家の次男に生まれ、本土の兵学校の給費生となったマージナル・エリートの一人である。

■第一帝政

ナポレオンはローマ教皇との宗教和約の締結や『民法典』の制定を行って、革命後の社会の安定をはかり、他方ではオーストリアやイギリスと和平を結んで全面的な対外的平和を回復した。

これらの成果の上に立って1802年に終身頭領に就任、1804年には王制復活の危険を理由に元老院決議と人民投票によって世襲皇帝となった。第一帝政である。

ナポレオン帝国は言論・出版を統制し、レジヨン・ドヌール勲章を制定し、新しい貴族を作って宮廷を復活させた。新しい社会秩序は国家への奉仕である。つまりナポレオン帝国は全国民に皇帝への服従を求める専制国家であった。しかし皇帝の正当性は、血統ではなく人民投票に立脚している点で、革命の原理に立っている。

社会各層は一部の自由派を除き、皇帝独裁を歓迎した。

領主制の廃止と国有化された土地(聖職者、亡命者が対象)の払い下げによって革命期に利益を得た中小農民は、既得権の保護者を求めて政治的に安定化していた。

都市労働者はストライキの禁止や労働手帳の所持義務によって自由を制限されたが、革命前から革命中にかけて彼らを苦しめた食糧事情は改善され、少なくとも日常生活が脅かされることはなかった。

ブルジョワもまた革命期に聖職者や亡命貴族の土地を手に入れて社会安定を望み、身分差別の廃止された軍隊・官僚のなかに社会的上昇の機会を見出した。

またイギリスに対抗する工業保護や大陸支配は、フランス産業にとって国外への市場の拡大を約束するかにみえた。

■崩壊

フランスにとっての基本的な敵はイギリスだが、1805年のトラファルガー沖の戦いで破れて以降は大陸支配に専念した。1810年~1811年が絶頂期になる。

しかし1808年のスペイン人蜂起、1812年のロシア遠征の失敗が命取りになった。この機会を捉えてプロイセン、オーストリアがロシアとともに反ナポレオン戦争に立ち上がり、1814年にナポレオンは退位しエルバ島を与えられた。

パリにはルイ16世の弟のルイ18世が亡命先からもどり、王政復古となるが、1815年にエルバ島を脱出したナポレオンが再び帝政を復活させた。しかしワーテルローの戦いに敗れ『百日天下』はつぶれた。ナポレオンはセントヘレナ島に流された。

ナポレオン成功の最大の理由は、強力な政府を望むフランスの社会の要請に対し、その権威主義的な個性と壮大な野心がマッチしたことにある。市民的平等(社団の廃止)と人民主権という革命原理は継承されていた。

しかしその国家は革命の軍事的防衛と行政的効率優先を至上命令とする官僚主義的管理国家でもあった。この政治体制の弱点は軍事的栄光への依存であり、その躓きが過酷な徴兵義務を負う農民のまた戦費の重税を負うブルジョワの不満を顕在化させた。