2014/06/25

ガンダムの家族論(3) 作品のテーマ クリエイターは公であることを自覚する


■アニメ

巨大ロボットという存在がどんなにバカバカしてくも、ロボットアニメという場所はオリジナルストーリーを創作できる場として、使える存在だった。

『嘘八百のリアリティ』とは舞台設定などの細部は嘘(フィクション)だが、全体的に見るとトータルである種のリアリティを手に入れているという意味。ポイントは、作中の設定やキャラクターの感情といった要素に、どこか現実との接点を作っておくこと。その点において家族という要素は大きい役割を果たす。

最近は当事者がリアリティを欠いて、ひたすら空理空論=フィクションに囚われているように見える。アニメが必要とする『嘘八百のリアリティ』の根拠の現実が、当の現実の中からどんどん消えている。

高度に抽象化されたキャラクターを操って、ドラマを演出しなくてはならないアニメにとって、リアリティの根拠というのは非常に大事な要素。

■作品

F91は家族論を正面から取り組もうとした作品。ガンダム世代にそろそろ大人になるんだから、親になる用意をしろ、ということを伝えたかった。

鉄仮面は、あらゆるものを受け入れる母性のメンタリティを切り捨て、父性だけで世界を切り分けようとした。

親子は教える、教えられるという行為を通じて最も深く結びつく。可愛がられた、という記憶は人にとって非常に重要で、子供が社会的な存在として成長していく上でとても重要になる。

ガンダムの終盤、アムロとララァはニュータイプ同士ゆえに深く心を通わせ、人類の未来を幻視することになる。ここから逆算すると普通の人の人生というのをしっかり認識する段階を経る必要があった。そこでランバ・ラルとハモンが登場した。

ハルルが堅物の女軍人としてしか生きられなかったのは、父ドバにとって『いい子』であろうとしすぎたからだ。

ターンエーガンダムのテーマは『めぐりくること』

■クリエイター

人の内面奥深く迫っていくものには文学的な意味がある、とか、心の苦しみに焦点をあてることが宗教性を帯びていて素晴しいという意見もある。しかし僕は、そんな狭い心性論で人が幸せになれますか、と問いたい。

人様に見てもらうなら、地球を救えなくても見ている人を元気にさせるぐらいはしてほしい。そうでなければ、ローカルな、地域文芸という世界の中で遊んでいるにすぎない。クリエイターと名乗る人なら、『公』の場に病気を垂れ流さないで欲しい。

日陰の花にはそれにふさわしい場所があって、そこから出てこないのが、大人の倫理なのだ、と僕は言いたい。

大事なのは大勢の観客に見せるという責任を自覚すること。

アニメの監督とは本質的に旗振り役だと思うようになった。

伝えるべき内容と、伝える技術のトレーニングが両方必要。伝えるべき内容とは、単なる自分が描きたいことではない。

自分が好きな者を直截に作るわけではなく、観客が望むものをそのまま作るわけでもなく、まして商業第一主義でもない。

このような微妙なバランスを成立させるためにも、時代がどのような物語を求めているのか、を考える必要がある。時には時代に対して反語の姿勢をとることも、時代の求めている物語を提供することとなる。

■感想

大勢の人にもらうことを意識した上で、さらに時代の求めているものを切り取ってみせる。一時代を築いたならでは視点ではないだろうか。時代の空気という点では村上春樹なんかもこれをはっきり意識してやっているはず。

極めてまっとうで王道な考え方だが、著者自身も数年、精神的に病気になった時期があって、改めてこのように感じたという意味で深い結論なのではないか。

次回の作品は年齢的にも最後になってくるだろうと思うので、どのようなテーマを持ってくるのか興味深い。


**中国の老人介護施設事情

中国で65歳以上が人口に占める割合は、現在の9%から2030年には18%になると予測され、21世紀の中頃には60歳以上の人口が5億人と米国の人口を上回るとされている。問題は費用が一ヶ月あたり1600ドルであること、文化的に親を施設に送る事に抵抗感があることなであるという。