2014年6月28日土曜日

フランス史10講(3) 復古王政から七月革命のあたり


下記にみるようにナポレオン没後のフランスは85年間に11の政体を経験する。

復古王政(1814~1830)
七月王政(1830~1848)
第二共和制(1848~1852)
第二帝政(1852~1870)
パリ・コミューン(1871)
第三共和制(1875~1940)

今回は復古王政のあたり。海外に亡命していた貴族や聖職者が戻ってきて、復讐を果たすという構図。旧体制の貴族や聖職者に対して民衆がもっていた緊張感を『赤と黒』に見出すことができる。

■復古王政

1814年にルイ16世の弟がルイ18世としてイギリスからパリに帰還した。王と前後して亡命貴族たちも続々と帰国し、各地で復讐心に燃えた白色テロが起こる。しかし国民の大部分はナポレオンは見捨てたが、フランス革命の原理は見捨てていなかった。

各国も反動的な王制の復活は求めていなかった。ウィーン会議の目的は革命の再発を予防するために列強が協力して平和を保つことであり、そのためには、革命再発を避ける安全弁として、フランスにある程度のリベラリズムが許容された。

このような情勢の中でルイ18世が選んだのが『憲章』に示される中道政治である。これは、国民主権を否定し、カトリックを国教化するなど反動的な面もあるが、他方では法の前の平等、所有権の不可侵、言論・出版の自由など革命の原則を確認する。

また王の任命する世襲議員からなる貴族院と、制限選挙制で選ばれる代議院との二院制とするが、大臣の任命権と法の発議権は王だけに属する。

■反動政治

しかし25年に及ぶフランス人同士の流血の対決は簡単には妥協を許さず、『ユルトラ』と呼ばれる過激王党派は革命を憎悪し、『リベロー』と呼ばれる自由派は憲章に含まれる立憲主義を守ろうとする。

ルイ18世は辛うじて中道政治を保ったが、1824年に王弟のユルトラ首領のアルトワ伯がシャルル10世として王位につくと、反動政治が始まった。

革命期に土地を没収・売却された亡命貴族に補償金を与える『亡命貴族の10億フラン法』や、ランス大聖堂での聖別式の復活などがそのあらわれである。そして1830年、自由派が抑圧にもかかわらず代議院選挙で勝つと、シャルル10世は新聞発行の制限、議員の解散、商工業者を締め出す選挙権の制限などの王令を出した。これが『七月革命』のきっかけになる。

■七月革命

七月革命はパリの『栄光の三日間』で決着のついたあっけない出来事である。自由派のティエールの発行する新聞の王令に対する抗議文が最初の行動となり、翌日学生・労働者・市民がパリ市内にバリケードを築く。

その夜から市内は蜂起状態になり、軍隊との戦闘が始まるが、兵士は市民側に同調し、翌日にはブルボン宮も蜂起側に占拠された。

街頭の蜂起者は1789年の英雄ラファイエットを大統領とする共和制を望んだが、自由派議員は情勢を鎮まるの待ち、オルレアン公ルイ-フィリップを王にするティエールの提案に賛成した。

オルレアン家は王家筆頭であるにもかかわらずフランス革命期に当主ルイ-フィリップが従兄弟にあたるルイ16世の死刑に賛成投票したためにブルボン家から嫌われ公職から閉め出されていた。

議会は急遽憲章を改正し、ルイ-フィリップがこの遵守を宣誓して『七月王制』が誕生した。