2014年6月29日日曜日

フランス史10講(4) 七月王政とその弱点


ということで七月王政の終わりまで。

七月王政の成立過程で権力が旧体制から再びブルジョワ層に戻ったが、そのブルジョワ層にも溝があるのが解る。混沌としながらも少しずつ収束に向っている過程といえようか。

日本の明治維新が1回で済んだのは、藩や武士階級が貧乏だったこと、宗教勢力が無かったことなどにあるのかもしれない。そういう意味では家康から家光の頃までに行ったことがその後の革命のあり方にも影響していると言えるかもしれない。

■名望家体制

七月王制のはリベローが権力の座を占めるブルジョワの国家だが、僅か18年しか続かなかった。この時期のフランスの政治構造は『名望家体制』という。

名望家とはローカル社会のエリートであり、彼らが力を発揮できるのは財力・教養・生活様式に由来する威信のほかに、議員として直接、あるいは人脈によって中央政治に結びついていたからである。

彼らが選挙で選ばれるのは、特定の社会層の利害を代表するからではなく、ローカル社会の価値観を管理し無言のコンセンサスをとりつける『お偉方』だからだ。その職業は、地主、企業家、役人、自由職業人などの幅広い階層であり、同一人物のなかに経済・政治・社会の諸権力が分化せずに集中している。

この政治体制が生まれる条件は、社団が解消して法的に平等な社会となり、産業化の進行によって全国的な連関が生まれながらも、まだローカルな共同体が残り、パーソナルな社会関係が強く作用している過渡期である。この名望家体制が、フランスでは安定しない。

■貴族とブルジョワ間の溝、ブルジョワ間の溝

まず貴族とブルジョワの間に深い溝がある。亡命地から帰国した貴族のなかには大地主が多く、わが世の春を夢見る過激な正統主義がはびこっていたが、七月革命後は中央政界から引退して領地の城館に引きこもる傾向が強まった。

彼らにとってルイ-フィリップの即位は血統の正当性ではなく、三色旗の革命によるものとして許しがたい。彼らは近隣の農村社会への影響力を保持し、地方政治の侮りがたい勢力として存続した。

他方でブルジョワは分裂していた。七月王制下のフランスは、個人が経済活動、官僚コース、戦争、芸術活動などを通じて自分の才能を存分に生かし、立身出世する道が容易になったという点で、ヨーロッパで最も『ブルジョワ的』な社会だといわれる。

しかしその頂点にいるのは、国債・保険など金融業務で政府に食い込むロスチャイルド家など『オート・バンク』と呼ばれる大ブルジョワであり、この寡頭支配に対し中小ブルジョワは反感を抱いていた。

このことは選挙権範囲でも解る。1832年のイギリスでは30人あたり1人であったのに対し、フランスでは1846年でも150人あたり1人であった。

また議会の対する王の権限もイギリスよりも強かった。このため革命に対する受け取り方がブルジョワ内部で違う。

大ブルジョワが、シャルル10世の反動的なクーデターに対する単なる抵抗と考えていたのに対して、中小ブルジョワの共和主義者は、パリ街頭における三色旗の勝利が少数の政治家によって横領されたと考えていた。

■七月王政の基本的性格

七月王政は成立過程から解るとおり、革命と王政の結合である。そしてオルレアン派はフランス革命の経験をふまえて民衆の街頭行動を危険視し、自由と民主(平等)の革命の二原理は両立しないと考え、自由だけを採用した。それが七月王政のリベラリズムの基本的性格である。

議会には少数の共和派や自由派左派がいるが、七月王政を支える議会多数派は保守的で、新聞人上がりで世論に敏感なディエールと、大ブルジョワに支持されるギゾーが影響力を持っていた。

ティエールははじめは王の信任を得ていたが、国内世論を背景に強硬な東方政策を取り、地中海の制海権をめぐってイギリスと衝突した。そのため国際的な孤立をおそれた王はティエールを罷免し、ギゾーに主導権が移った。

彼の政治信念は『私は王の神授権も人民主権も信じない』『私は理性、正義、法の主権を信じる』というもの。それによれば、理性とは社会の奥に隠れているものであり、選挙とは能力のある者がこの理性を抽出する作業なのだ。

したがって投票は権利ではなくて機能であり、その能力は資産によって資質を保証されている有産者、とくに地主にある。これがフランスに限らず制限選挙の論理である。

ギゾーの考える中間階級は極めて狭く、このリベラリズムの寡頭性が七月王政の命取りになる。